社号 | 白山神社 |
読み | はくさん |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 京都府宇治市白川娑婆山 |
旧国郡 | 山城国久世郡白川村 |
御祭神 | 伊邪那美命 |
社格 | |
例祭 |
白山神社の概要
京都府宇治市白川娑婆山に鎮座する神社です。
社伝によれば、延暦九年(790年)に疱瘡が流行した際にその治癒を祈願して建てられたのが当社の始めと伝えられています。
その後、康和四年(1102年)に藤原頼通の娘で冷泉天皇の皇后である藤原寛子が平等院の奥の院として当地に「白川金色院」を建立し、当社はその鎮守社となりました。
当社の創建を「白川金色院」建立後の久安二年(1146年)とする伝承もあり、当社の創建年代については錯綜があるようです。
この「白川金色院」は「白川別所」とも称し、文殊菩薩を本尊とした寺院で多くの華麗な伽藍や塔頭を有する大寺院だったと伝えられているものの、長禄四年(1460年)に焼失してしまいました。
その後「白川金色院」は応仁元年(1467年)に再建されたものの、明治の神仏分離によって廃寺となりました。
現在は総門および寛子の供養塔と伝えられる石造九重塔が残っています。
一方、当社は建治三年(1277年)の古い拝殿が残っており、茅葺の住宅様式の拝殿で、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
また当社に伝わる神像「木造伊邪那美尊坐像」および仏像「木造十一面観音立像」はいずれも平安時代後期のものとされ、こちらも国指定重要文化財となっています。
国内有数の観光地である宇治から近く、また豊富な文化財を有するものの、丘陵上にあり絶妙にアクセスが悪いため普段はあまり訪れる人もおらず、地元の白川地区の人々が信仰するひっそりとした神社となっています。
もし平等院の奥の院だったという「白川金色院」が今も残っていたら、当地も名所として賑わい当社も多くの人が訪れていたのかもしれません。
境内の様子
当社は平等院の南南東約1.4kmほどの丘陵上にある白川地区に鎮座しています。
境内の西北西約180mほど、白川の集落から東へ分岐したところに、かつて存在した寺院「白川金色院」の総門が残っています。
総門は本瓦葺の平入切妻造の四脚門。
総門前に配置されている灯籠には「白山宮」と刻まれ、白川金色院無き今は専ら当社の神門といった位置付けになっています。
総門から少し進んだところで右側(南側)へ曲がります。当社が鎮守となっていた「白川金色院」はかつてこの辺りにありました。
道なりに左側へ曲がりながら進んでいくと奥に森が見えてきます。これが当社境内となります。
この森の入口に鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。寺川を渡る石橋の先に石段が伸びており、昼間でも薄暗い鬱蒼とした空間になっています。
石段下の左右に配置されている狛犬。
右側(南側)の狛犬のさらに右側(南側)に手水舎が建っています。
いよいよ石段を上っていきます。
石段上は石段下と打って変わって日光のよく当たる明るい空間となっており、ここに社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は茅葺の平入寄棟造で、住宅様式の建築です。建治三年(1277年)に建立されたもので、古く貴重なものとして国指定重要文化財となっています。
後ろ側(本殿側)から拝殿を見た様子。屋根は葺き替えたばかりのようで非常に綺麗な状態です。
正面側は手狭でわかりにくかったものの、背後から見るとまさしく住宅建築であることがわかります。
元々は宇治離宮にあった建物だったとする説もあります。
案内板
白山神社拝殿
拝殿後方の石垣上に中門(拝所)と瑞垣が設けられ、本殿の建つ空間とを仕切っています。
中門は銅板葺の妻入切妻造の四脚門。
中門の奥に建つ本殿は銅板葺の三間社流造。
中門前の左右には盛り砂が設けられています。
また中門前の右側(南側)には二つの砲弾が置かれています。
拝殿と中門の間の左側(北側)には三社の境内社が一つの覆屋に納められ、南向きに鎮座しています。
祀られているのは左側(西側)から順に次の通り。
- 「阿多古神社」
- 「春日大社」「石清水八幡宮」の相殿
- 「北野天満宮」
いずれも板葺の簡素な一間社流造で、中央の相殿のみやや規模が大きなものとなっています。
道を戻ります。石段下の左側(北側)に境内社が南向きに鎮座。社名、祭神は不明。
木造の鳥居が建ち、覆屋に小さな流造状の祠が配置されています。傍らには五輪塔の上部と思しき石造物も置かれています。
当社境内の北方に石造物が寄せ集められた一画があり、ここに石造九重塔が置かれています。
この塔は鎌倉時代の建立で、白川金色院を建立した藤原寛子の供養塔であると伝えられています。
案内板
九重石塔
由緒
案内板
白山神社
案内板
白山神社と金色院
地図