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住吉神社 (兵庫県明石市魚住町中尾)

社号住吉神社
読みすみよし
通称魚住住吉神社 等
旧呼称
鎮座地兵庫県明石市魚住町中尾
旧国郡播磨国明石郡中尾村
御祭神底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命(神功皇后)
社格旧県社
例祭10月最終日曜日

 

住吉神社の概要

兵庫県明石市魚住町中尾に鎮座する神社です。

社伝によれば、神功皇后の三韓征伐の帰途、播磨灘で暴風雨に遭ったため魚住に祈願し住吉大神に祈願したところ暴風雨がおさまったといい、摂津国に「住吉大社」(大阪市住吉区住吉)として住吉大神が祀られた後、住吉大神が播磨国へ渡りたいと思い藤を海へ流したところこの地に流れ着いたので、雄略天皇八年四月初卯日にこの地に住吉大神を勧請して祀ったのが当社と伝えられています。

由緒前段について、正史では神功皇后が当地に立ち寄ったとする記録はなく、瀬戸内海沿いに多い神功皇后に付会する伝承の一例でしょう。

一方、「住吉大社」に伝わる古文書『住吉大社神代記』に子神の一つとして「魚次神」が見え、これが当社に比定されています。

『住吉大社神代記』が成立した頃(平安時代中期~後期頃か?)には当社が所在し、かつ「住吉大社」と関係の深かったことが窺えます。

さらに『住吉大社神代記』には神領の一つとして「明石郡魚次濱」を記しており、概ね当地を含む大久保から二見にかけての海岸だったと考えられます。この記事ではその由来として次の故事を記しています。

『住吉大社神代記』(大意)

神功皇后の三韓征伐の後に住吉大神が紀伊国の藤代嶺(現在の和歌山県高野町東部の山に比定)に鎮座した。

大神は「我が居住したいと思うところは大屋に向かうようなところだ。播磨国に渡り住もう」と言い、大藤を切って海に浮かべて「この藤の流れ着くところに我を祀れ」と言ったところ、この浜に流れ着いたので藤江と名付けた。(※現在も当社の南東約5kmの地に藤江の地名が残る)

明石川内の上神手・下神手(現在の神戸市西区神出町付近に比定)から大見小岸(明石郡邑美郷 / 現在の当地付近に比定)に至るまで悉く神領とした。

これとほぼ同じ内容の記事が『播磨国風土記』逸文にもあり、古くから著名な伝承だったようです。

上記由緒の後段はこの記事に基づくものですが、『住吉大社神代記』および『播磨国風土記』逸文には当該記事に当社を創建した旨は記していません。

とはいえ当社(魚次神)がこの神領の守護神として住吉神を勧請し祀ったものだったことは想像に難くありません。

また奈良時代の僧侶である行基が摂津から播磨にかけて五ヶ所の港を整備し(摂播五泊)、その中の一つに魚住泊があります。これは当社の南東約1.3km、赤根川河口であることがほぼ特定されています。

住吉大社も神領内にあるこの魚住泊を利用したものと思われ、この港湾の重要性を前提とした神領であったことは推測して良さそうです。

時代が下って中世には当地は「魚住荘」「伊保角荘」と称する荘園として引き続き住吉大社の領地だったようで、古代から一貫して住吉大社の影響を受けた地だったことが記録から確かめられます。

当地から南東の谷八木地区にかけて複数の住吉神社が鎮座することもこの一帯が住吉大社の神領・荘園だったことと無関係ではないでしょう。

こうした住吉大社と関係の深い当地一帯における中心的な神社として当社は発展していったようです。

なお当社が現在地に遷座したのは正応五年(1292年)とも言われて言われています。旧地の場所ははっきりしません。

現在も当地付近では特に大規模な神社であることから多くの崇敬を受けており、また社前の海浜が風光明媚であることから近年はSNS等を通しても広く知られるようになっています。

 

境内の様子

当社は中尾地区の海浜に鎮座しています。

海に面して白い常夜灯が建ち、少し進んだ砂丘上に鳥居が南向きに建っています。

 

灯籠の並ぶ参道を進むと正面に神門が南向きに建っています。

神門の形式は本瓦葺の平入切妻造の薬医門ですが、通常の薬医門とは異なり後方の柱が太くなっています。

 

神門をくぐってすぐ奥に随身門(楼門)が南向きに建っています。

形式は三間一戸の八脚門で、本瓦葺の平入入母屋造。

明石市指定有形文化財で、棟札から慶安元年(1648年)に建立、元禄四年(1691年)に修理されたことがわかっています。

案内板

明石市指定文化財(昭和五十二年度)

建造物「住吉神社の楼門」

 

随身門の前に配置されている狛犬。

 

随身門の左右にある後方の部屋にも木造の狛犬が安置されています。

前方の部屋には随身像がそれぞれ安置されており、互いを向き合う対面型となっています。

 

随身門をくぐると正面は能舞台(後述)の背面となっており、これを迂回して参拝することになります。

 

当社の手水舎は能舞台を回り込み、社殿の前を通り過ぎて境内東側にあります。動線としてはかなり不便です。

 

手水鉢の吐水は兎の像となっています。

本宮である住吉大社が卯年卯月卯日に創建されたことから兎を神使としており、当社もまた卯日に創建されたと言われていることから、当社もまた兎が神使となっているのでしょう。

 

魚住住吉神社

魚住住吉神社

能舞台の奥、境内の中心に社殿が南向きに並んでいます。

拝殿は朱塗りの施されたRC造で、銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。

 

拝殿後方、瑞垣に囲まれて一間社春日造に軒唐破風の付いた四棟の本殿が横一列に並んでいます。

これらの内、息長足姫命を祀る左側(西側)の本殿のみ千木が内削ぎになっています。

 

境内社

本社本殿の左側(西側)に三社の境内社が東向きに並んでいます。それぞれ左側(南側)から順に次の通り。

  • 高良神社」(御祭神「武内宿禰命」)/ 銅板葺の一間社流造
  • 稲荷社」 / 銅板葺の一間社流造、朱鳥居あり
  • 神明社」/ 銅板葺の神明造

 

本社社殿の左奥(北西側)、境内の北西隅に「大海社」が南向きに鎮座。

社殿は板葺のまっすぐな屋根の春日見世棚造で、覆屋に納められています。

 

大海社の右側(東側)に三社の境内社が南向きに並んでいます。

左側(西側)から順に「粟島社」「天満社」「竈神社」。

社殿はいずれも同規格の銅板葺の流見世棚造。

 

本社本殿の右側(東側)に「八幡神社」が南向きに鎮座。御祭神は「應神天皇」。

社殿は銅板葺の一間社流造。

 

道を戻り、当社の鳥居の左側(西側)にももう一基鳥居が建っています。

その奥に注連柱が建ち、塀に囲われて境内社が南向きに鎮座。社名・祭神は不明。

社殿は銅板葺の流見世棚造。

 

境内その他

上述の通り、当社社殿に相対するようにして能舞台が建っています。

本瓦葺の妻入入母屋造で、橋掛かりも設けられた本格的なものです。

東播磨では神社境内に能舞台を設ける例が多く、当社もその一例ではあるものの現在は明石市内では現存唯一となっています。

初代明石藩藩主である小笠原忠政(忠真)が寛永四年(1627年)に建立したもので、明石市指定有形民俗文化財

しかし正徳三年(1713年)の建立との情報もあり不確実です。この時に大規模な修理が行われたのかもしれません。

現存最古の能舞台である西本願寺の北能舞台が16世紀末の建立でこれが国宝であることを鑑みれば、もし当社能舞台が寛永四年の建立ならば能舞台としては極めて古く、国重文相当ではないかとも思われます。

 

魚住住吉神社

当社はまさに「白砂青松」と呼ぶに相応しい海に臨む風光明媚な神社として名高く、鳥居越しに播磨灘を望む光景は特に美しいものです。

この光景は近年はSNS等を通しても広く知られるようになってきています。

 

魚住住吉神社 藤

また当社は藤の名所としても知られています。

本社本殿の後方(北側)にある「祓除(はらい)の藤」は明治頃に献樹されたものといい、毎年GW頃には非常に美しく花を咲かせます。

『住吉大社神代記』の記事からも当地は藤と縁が深い(詳細は上記概要を参照)ことから藤が御神木として植えられたようです。

案内板

神木祓除(はらい)の藤由来

 

当社社前にある波止場から当社境内を眺めた様子。海辺の砂丘上に松の生い茂る当社の様子がよくわかります。

 

タマ姫
海も藤もむっちゃきれい!むっちゃいいところだね!
とても美しい神社ね。そして古くから住吉大社と関係の深い歴史ある神社でもあるわ。
トヨ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板

住吉神社御由緒

案内板

明石市指定文化財

 

地図

兵庫県明石市魚住町中尾

 

関係する寺社等

住吉大社 (大阪府大阪市住吉区住吉)

社号 住吉大社 読み すみよし 通称 住吉さん 旧呼称 住吉四社大明神 等 鎮座地 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 旧国郡 摂津国住吉郡住吉村 御祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后 社格 式内 ...

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