社号 | 猪上神社 |
読み | いがみ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県生駒郡平群町信貴畑 |
旧国郡 | 大和国平群郡信貴畑村 |
御祭神 | 天足彦命、国押人命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 9月21日 |
式内社
猪上神社の概要
奈良県生駒郡平群町信貴畑に鎮座する神社です。信貴山真言宗の寺院「信貴山朝護孫子寺」の参道に鎮座しており、同寺の鎮守として信仰されてきました。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社の御祭神は「天足彦命」「国押人命」の二柱です。しかし『日本書紀』では「天足彦国押人命」と一人の人物として記載されており、何故か当社では「天足彦」と「国押人」で分かれてしまっている格好となっています。
天足彦国押人命は孝昭天皇の皇子で、一般的には和珥氏の祖として知られています。
『新撰姓氏録』和泉国未定雑姓に天足彦国押人命の後裔であるという「猪甘首」が登載されており、この氏族が当社に関係するとして祀られているものと思われます。
ただし当地に猪甘氏が居住していたのか、そもそも「猪上」が「猪甘(猪飼)」に因むと見て良いのか疑問であり、あくまで参考と見るべきでしょう。
一方で延喜年間に信貴山を中興した命蓮という僧侶が堂舎増築を祈願した際、霊猪が出現して一夜にして竣工したので霊猪を祀ったとの記録があります。
ただ延喜年間に編纂された『延喜式』に載る当社がその延喜年間に創建されたとは考えにくく、より古くから鎮座していたものと思われます。
また信貴山では虎を使いとして信仰しており、また本尊である毘沙門天の眷属といえばムカデです。ここで敢えて虎でもムカデでもない猪を持ち出してくるのは不自然で、「猪上」の社名からの付会と考えた方が良さそうです。
また一説に信貴山はかつて「井上山」と呼んだとも、また雄岳山頂の水神を拝んだことによる「ヲガミ」が訛ったものとも言われています。
あくまで仮説であり、当社の創建の経緯は不明としか言いようがありません。
ただ大和国と河内国の境界にある信貴山を霊山、神体山として祭祀する山岳信仰を原初としていた可能性は考えられるかもしれません。
先述の通り、当社は信貴山真言宗の寺院「信貴山朝護孫子寺」の参道に鎮座しています。これは明治三年(1870年)に遷座されたもので、元々は朝護孫子寺の本堂の石段下にある経蔵の地に鎮座していたと言われています。
古くから朝護孫子寺の鎮守として信仰されていましたが、遷座されたのは明治の神仏分離によるものです。
当社が信貴山を霊地として祭祀する神社だったとするなら、その信仰は朝護孫子寺が継承しているとも言えるかもしれません。
その意味では神仏分離で切り離されたとはいえ、当社と朝護孫子寺は切っても切れない関係であると言えることでしょう。
境内の様子
信貴山朝護孫子寺は大規模な寺院であり、信貴山の山腹に門前町を形成しています。
当社および朝護孫子寺へは信貴山バス停を下りてから門前町を通り、橋を渡って谷を越える必要があります。
この橋は「開運橋」と呼ばれ、昭和六年(1931年)に竣工した上路カンチレバー橋(トラス橋の一種)で、登録有形文化財となっています。
開運橋から谷底を見た様子。普段は大門ダムによってダム湖が形成されていますが参拝時は水が涸れていました。
開運橋を渡った先が朝護孫子寺の入口です。参道沿いに左方向(北西側)へ進めば朝護孫子寺へ至ります。
一方、橋を渡って右側(東側)へ進むと当社が鎮座しています。
道沿いに鳥居が南向きに建っており、石段の上にもう一基鳥居が建っています。
二基の鳥居をくぐった先に社殿が南向きに建っています。
境内は狭く、また拝殿や手水舎などの施設の無い、ごくごく小さな神社となっています。
当社の社殿は石段上にある基壇上に本殿が建っているのみ。銅板葺の流見世棚造です。
二つの扉があり、「天足彦命」「国押人命」の二柱をそれぞれ祀っているのでしょう。
なお概要にも記した通り、『日本書紀』などの史料は「天足彦国押人命」と一人の人物として記しています。
本殿前の狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。
信貴山朝護孫子寺
猪上神社はかつて信貴山真言宗(元々は高野山真言宗)の寺院「信貴山朝護孫子寺」の鎮守社でした。
寺伝によれば、敏達天皇十一年(582年)、聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願した際、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が出現して戦勝の秘法を授けられ、見事勝利したことから用明天皇二年(587年)に太子自ら毘沙門天の尊像を刻んで本尊として創建したと伝えられています。
またその際、その地を「信ずべき貴ぶべき山」として「信貴山」と名付けたとも伝えられています。
当寺の参道にはいくつかの鳥居が建っています。
これは神仏混淆の表れであるとも、元々が猪上神社の神地であったからとも考えられますが、当寺の本尊は菩薩でも如来でもなく毘沙門天という天部、即ち「神」であるため、神道的な部分も多分に加わったと見ることもできそうです。
当寺には巨大な虎の張り子が置かれており名物になっています。この他にも様々なところで虎の置物が置かれており当寺のマスコットとして名物になっています。
由緒の「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が出現した」ことに因み、当寺では虎が使いとして信仰されています。
毘沙門天を安置する本堂はやや小高いところにあり、銅板葺の妻入入母屋造りで唐破風付きの向拝の付いた大規模な建築です。
当寺では虎が使いとして信仰されている一方、毘沙門天の眷属はムカデであるため、本堂にはムカデの彫刻があります。
虎、ムカデ、そして猪上神社の猪など、信貴山における信仰は多彩な生物が渦巻いていると言えそうです。
なお、猪上神社はかつて本堂の石段下にある経蔵に鎮座していたと言われてます。
案内板
地図