社号 | 賣太神社 |
読み | めた |
通称 | |
旧呼称 | 三社明神 等 |
鎮座地 | 奈良県大和郡山市稗田町 |
旧国郡 | 大和国添上郡稗田村 |
御祭神 | 稗田阿礼、天鈿女命、猿田彦命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月19日 |
式内社
賣太神社の概要
奈良県大和郡山市稗田町に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、当地に居住した「稗田氏」が祖神を祀ったのが当社の創建と考えられています。
稗田氏は優れた記憶力により『古事記』の編纂に携わった人物「稗田阿礼」を輩出した氏族として知られていますが、記紀や『新撰姓氏録』等には見えず謎の多い氏族です。
稗田氏は『弘仁私記』などの記録に「天鈿女(あめのうずめ)命」の子孫であると見えています。
アメノウズメは記紀において天岩戸の段で滑稽かつ性的な動作で踊って神々を笑わせ、天岩戸に籠った天照大神の興味を引いて脱出させることに成功した様子が描かれており、極めて有名な局面となっています。
この記述からアメノウズメは踊りや舞によって神々に奉仕し和ませる巫女を神格化したものと考えられています。
また記紀にアメノウズメの子孫は「猿女君」であると記載されており、大嘗祭はじめ朝廷における祭祀において舞などの芸能を行う人々だったとされています。
猿女君もまた『新撰姓氏録』に記載がなく謎の多い氏族で、実態は血縁的な氏族でなく神事や芸能に奉仕した女性の集団だったとする説もあり、稗田氏も生まれた女子をこの集団に属させる資格を持つ氏族の一つだった可能性があります。
稗田氏にしろ猿女君も不明な部分が多いので推測の域を出るものではありませんが、猿女君は本来伊勢を拠点として活動していた一方で、朝廷に奉仕するため都に近い添上郡の稗田を拠点とした集団が稗田氏だったと見ることもできるかもしれません。
一方で当社についても謎が多く、近世以前は「三社明神」と称し、御祭神も不明だったようで、特に稗田阿礼や天鈿女命など稗田氏に関係する神や人物を祀ったものと考えられていなかったようです。
また式内社「賣太神社」も『大和志』では当社に比定するものの『神社覈録』『大和志料』などの資料では所在不明としているように、当社が式内社であると積極的に比定されるものでもなかったようです。
当社が式内社「賣太神社」とされた根拠は不明ですが、猿女君が天皇より賜ったを猿女田と呼び、後に「猿」を省略して「メタ」と称したとする説があります。案内板によれば現在も「猿女田」と呼ばれる土地があるようで、調査により古墳時代の環濠跡や土器等が発掘されています。
現在の当社は「稗田阿礼」を主祭神とし「天鈿女命」「猿田彦命」を配祀しています。稗田阿礼は古事記編纂に携わった舎人であること以外ほどんとの事蹟が不明で、当初からの御祭神とは考えにくいですが、稗田の象徴的な存在として主祭神に選ばれたのでしょう。
上述のように当地は古くから稗田氏の居住した地とされ、稗田阿礼もこの地の出身である可能性が考えられる一方、中世以来の環濠集落の様子が現在にまで非常に良好な状態で残っており、古代と中世の錯綜する歴史ある地であると言えましょう。
境内の様子
当社境内は環濠集落となっている稗田の集落の南東部にあり、こんもりとした森になっています。
入口は境内の南東側にあり、南向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐると社務所につきあたり、参道は左(西)へ直角に折れ曲がります。
参道途中、左側(南側)に手水舎があります。
参道をまっすぐ進むと正面に社殿が東向きに並んでいます。
基壇の上に建つ拝殿は銅板葺の平入切妻造で朱が施されています。正面と側面の前半分は壁の無い開放的な造りで、左右両側に塀が接続しています。
拝殿後方に塀に囲われて銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。こちらも朱が施されています。
本社拝殿の右側(北側)に謎の正方形の基壇があり注連縄が掛けられています。
さらに基壇の両脇に砂岩製の古めかしい狛犬が配置されてあり、ただならぬ一画であることが窺えます。
何らかの神社の跡でしょうか。気になるものの詳細不明。
謎の基壇の左側(西側)に石仏を安置したお堂が建っています。
本社社殿の左側(南側)には池があり、「鏡池」と呼ばれています。
池の中に「稗田橋」と刻まれた石碑がありますが橋らしきものは見当たりません。
境内の隅には「かたりべの碑」と刻まれた石碑が建っています。稗田阿礼は優れた記憶力により『帝紀』『旧辞』といった古い歴史書を「誦習」、つまり声に出して読み上げることで『古事記』の編纂に携わりました。これを記念したものでしょう。
当社では8月16日に稗田阿礼の威徳を偲ぶ「阿礼祭」が行われます。これは昭和五年(1930年)に児童文学者の久留島武彦が各地の童話作家の協力を得て始めたものです。
そもそも中世以前は『古事記』はあまり注目されず、近世中期から国学が盛んになるにつれてようやく注目を浴びるようになっていきます。稗田阿礼の功績に目が向けられるのもこれ以降であり、昭和に至って一気に高まったものなのでしょう。
こうした評価の移り変わりもまた一つの歴史であると考えるべきです。
当社の鎮座する稗田地区は環濠集落となっています。環濠集落とは農民が集落を守るために集落の周りに堀(水路)を廻らせたもので、現在見られるものは戦乱の多発した中世以来のものです。
奈良盆地では各地に環濠集落が残っていますが、稗田地区の環濠集落はとりわけ良好な状態で残っており、教科書にも代表例として取り上げられるほどです。
整備が行われているとはいえ堀が昔のままに残っており、集落内も古い家屋が多く、さながらタイムスリップしたような感覚すら味わえます。
当社参拝の際は環濠集落の様子も見学してみるとより当地の歴史の理解が深まるのではないでしょうか。
御朱印
由緒
案内板
賣太神社御由緒
案内板
賣太神社御由緒
地図