社号 | 阿紀神社 |
読み | あき |
通称 | 神戸明神 等 |
旧呼称 | 神戸大神宮 等 |
鎮座地 | 奈良県宇陀市大宇陀迫間 |
旧国郡 | 大和国宇陀郡迫間村 |
御祭神 | 天照皇大神、秋姫命、八意思兼神、天手力男命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月17日 |
阿紀神社の概要
奈良県宇陀市大宇陀迫間に鎮座する式内社です。
案内板によれば、大国主命の孫である「秋姫命」がこの地を開拓し、当地を万代の宮処として鎮まったとしています。(※『古事記』では秋毘売神は大国主命でなく大年神の孫。『日本書紀』には登場しない)
一方で当社は一般に「元伊勢」の一つとされ、創建もこれに因むとする説があります。
元伊勢とは、「伊勢神宮」が現在地に鎮座する以前に一時的に「天照大神」を祀っていたとされる地のことです。
崇神天皇の御代、天皇が宮中に天照大神を祀るのを畏れたために天照大神の鎮まるべき地を豊鍬入姫命に求めさせ、途中倭姫命が代わって探し求め、各地を転々としつつ最終的に現在の伊勢神宮の地に落ち着くことになります。
その様子は『日本書紀』に簡単に記され、『皇太神宮儀式帳』『倭姫命世記』といった後世の史料に詳細に記されています。
『皇太神宮儀式帳』における「宇太乃阿貴宮」、『倭姫命世記』における「宇多秋宮」が当地とされ、天照大神の祭祀が豊鍬入姫命から倭姫命に代わってから二番目に祀られたところです。
当地の後に同じ宇陀郡内の佐佐波多宮(「篠畑神社」「葛神社」「御杖神社」などが候補地)、そして伊賀国、近江国、美濃国、尾張国、伊勢国へと鎮座地が移っていくことになります。
こうした「元伊勢」の伝承がどれほど史実を反映していたのかは不明ですが、平安時代後期の伊勢神宮の記録である『太神宮諸雑事記』には「大和国宇陀神戸十五戸」とあり、この神戸(神社維持のためのに神社に付属した人々)は当地のことと考えられ古くから伊勢神宮と関係が深かったことが窺われます。
江戸時代以前の当社の呼称である「神戸大神宮」も伊勢神宮の神戸が当地にあったことを反映していると考えられます。
一方、「アキ」の地名も古く、壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)は吉野宮から「菟田吾城」へ移ったことが『日本書紀』に見え、これはこの辺りであるとされています。
後、「阿(安)騎野」と呼ばれた当地一帯は皇室直轄の狩場とされ、『万葉集』には軽皇子(後の文武天皇)が安騎野に宿る際に柿本人麻呂が詠んだ歌「東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」はあまりに有名です。
そのような長閑な一帯だった当地も豊臣政権の頃に秋山に宇陀松山城が築かれてからは一変します。宇陀川沿いに大規模な城下町が作られ、江戸時代前期には宇陀松山藩主の織田長頼により城下からほど近い当社に能舞台が築かれました。
その後「宇陀崩れ」と呼ばれるお家騒動により元禄七年(1694年)に宇陀松山藩は廃藩となり幕府の天領となりましたが、宇陀松山は引き続き旧・宇陀郡の中心的な商業都市として栄え、現在も古い町並みが良好に残り重要伝統的建造物群保存地区となっています。
当社もまた廃藩後も能舞台が使用され、近隣住民の娯楽の場となっていたようで、まさしく当地の繁栄を象徴するものでしょう。
なお、当社はかつて神楽岡に鎮座していたのを天正年中に現在地に遷座したと伝えられています。具体的な旧地は不詳ですが、宇陀松山の東方の丘の中腹に「神楽岡神社」が鎮座し、また山頂の宇陀松山城が別名を「神楽岡城」とも称するように、神楽岡とは宇陀松山城のあった丘(別名「城山」とも)のことであり、伝承が正しいならこの丘のどこかに鎮座していたのでしょう。
一方で倭姫命は当社西方の「照巣(てれす)」と呼ばれる地で天照大神を祀り、後にそこから当社南方の「高天原」と呼ばれる丘の上に遷し、さらにその後平安時代に現在地に遷したとの伝承もあります。
上記二つの伝承は全く相反するものといえ、或いは全く異なる二つの神社を合祀しているのかもしれません。
なお、『大和志料』に引く『春日若宮裕範ノ記』によれば天正十三年(1585年)の伊藤掃部助の入部の際に神楽岡の神を当社の傍らにある塚に遷したとあり、神楽岡に鎮座していた神社は神戸大神宮と呼ばれた当社の境内社となったことが推測されます。
ただ、『大和志料』はその地を「新神楽岡」と呼び、「俗ニ高天原ト称ス」とも記しています。すなわち「神楽岡の神の遷座先」=「新神楽岡」=「高天原」となり、上記二つの伝承ともまた異なる伝承となっています。
いずれにせよ当社の来歴については錯綜があるようです。
境内の様子
当社は宇陀川の支流・本郷川に沿った低地に鎮座しています。
川の畔に境内入口があり、神明鳥居が東向きに建っています。
鳥居をくぐって正面に能舞台が建っていますが、これについては後述。
能舞台を横目に奥側へ進むと石垣が設けられて土地が高くなっている空間があり、そこに社殿が南向きに並んでいます。
鳥居からの参道は西へ進むのに対し社殿は南向きに建っているため、参道から見るとは社殿は横向きになっています。
石段を上って本社社殿へ。
当社に拝殿はなく、本殿前に銅板葺・平入切妻造の拝所(中門)が建っています。
拝所の後方、塀に囲われて銅板葺の神明造の本殿が建っています。
内削ぎの千木と10本の鰹木が設けられ、まさしく天照大神を祀る神社らしい形式となっています。
拝所、塀、本殿ともに真新しい建築。
本社本殿の右側(東側)に銅板葺の三間社切妻見世棚造の境内社が東向きに二棟並んでいます。
社名・祭神はいずれも不明。
また先の境内社の手前右側(北側)にも銅板葺の切妻見世棚造の境内社が南向きに鎮座しています。
こちらも社名・祭神は不明。
- 本社社殿の傍らに建つ石灯籠には当社の旧称である「神戸太神宮」と刻まれています。紀年銘が読み取りにくいですが恐らく寛文九年?(1669年?)のもの。
道を戻り、鳥居をくぐった正面に能舞台が建っています。
この地域で能舞台があるのは非常に珍しく、江戸時代前期、宇陀松山藩主の織田長頼が能舞台を建てたと言われています。
宇陀松山藩の廃藩後も能舞台で能が演じられたようで、商業都市として発展した宇陀松山の繁栄の象徴とも言うべきものでしょう。
銅板葺・妻入切妻造の本舞台、右脇に地謡座、左奥には橋掛かりを設けた本格的な能舞台です。
上述のように能舞台を建てたのは江戸時代前期ですが、現存の能舞台が当時のものかは不明。文化財指定は特になされていないようです。
平成四年(1992年)に能が再開され、現在は「あきの蛍能」と名付けられ毎年6月に能が行われています。
能舞台の向かい側(南側)には社務所と思しき建物が二棟並んでいます。
当社境内の全体を引きで見た様子。
針葉樹の巨樹が多く生い茂ってる様子がわかります。当地に遷座したのは平安時代とも天正年間とも言われていますが、神域らしい威厳が感じられます。
高天原
当社のすぐ南方の丘の上は「高天原」と呼ばれ、当社の旧社地と伝えられています。
当社のすぐ南方、丘の北麓に入口があり、その傍らに看板が建っているので見落とすことはほぼありません。
丘の上への道は石段が設けられており歩きやすく整備されています。
途中に小さな祠があり、狐の置物が置かれていることから稲荷系の神が祀られているのでしょう。
山頂にはこのような石垣があり、「高天原」と書かれた看板があります。
この石垣の上には何らかの建物が建っていたと思しき石組があり、確かにここにかつて神社が建っていたことを思わせます。
伝承では当初は当社の西方、本郷地区の北側の山上、「照巣(てれす)」と呼ばれる地に倭姫命が天照大神を祀り、そこから高天原へ遷したとも言われています。
ただ、案内板には現在地に遷ったのは平安時代とありますが、この石垣や石組の遺構が平安時代のものとは到底思えません。もっと新しい時代のものでしょう。
また、当社は神楽岡に鎮座していたのを天正年間に現在地に遷したとする伝承もあり、神楽岡は当社の東方、宇陀松山城のあった丘(城山)のことです。
このように当社の旧社地についての伝承は錯綜しています。邪推するならば、全く別の二つの神社を合祀したため二系統の伝承が伝えられているとも考えられるかもしれません。
また概要に記した通り、『大和志料』には神楽岡に鎮座していた神をここに遷したといった旨が記されており、上記二つの伝承ともまた異なるもので、来歴ははっきりしません。
現在の社地が創建時からの鎮座地でない可能性は高いですが、具体的な旧社地については検討を要します。
案内板
高天原
由緒
案内板
阿紀神社
案内板
縣社 阿紀神社縁起
地図