社号 | 鴨山口神社 |
読み | かもやまぐち |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県御所市櫛羅 |
旧国郡 | 大和国葛上郡櫛羅村 |
御祭神 | 大山祇命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 7月16日、10月16日 |
鴨山口神社の概要
奈良県御所市櫛羅に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「○○山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが当社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、他の「○○山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと思われます。
「○○山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「○○山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺えます。
また当社は含まれていませんが、『延喜式』祝詞の祈年祭に飛鳥、石村、忍坂、長谷、畝火、耳無の各山口神社はその山の木材を伐り出し宮殿とした旨が記されており、「○○山口(坐)神社」は用材の産地として樹木を守護する神でもあったことが考えられます。
また社伝によれば、当社はかつて西方の「岸の山」と呼ばれる地に鎮座していたものの天災による山崩れのため現在地に遷座したと伝えられています。
旧地であるという「岸の山」の具体的な場所や遷座時期は不明ですが、元々は西方の葛城山の中腹に鎮座していたことが窺えます。
南方の関屋地区に鎮座する「葛木水分神社」と共に、葛城山を重要な水源地として朝廷が国家的に祭祀したのでしょう。
江戸時代中期の『大和志』には「高鴨山」にあると記されており、この「高鴨山」を「岸の山」とするとこの時期以降に現在地に遷座したことと思われます。
また『大和志』には松の木の下に小さい祠があるとも記しており、この頃は小さな神社だったようです。
当社の現在の御祭神は「大山祇命」で、「大日霊大神」「御霊大神」を配祀しています。
この内、配祀されている二柱の神像が伝えられており、藤原時代前期(九世紀頃)のものとされる極めて古く貴重なもので、国指定重要文化財となっています。
「木造大日霊命坐像」は衣冠束帯の姿なのに対し「御霊大神坐像」は女神の姿で伝えられているのが特徴です。一般に大日霊命は女神であるとされているのでとりわけ珍しい例と言えるかもしれません。
境内の様子
当社は櫛羅(くじら)の集落の中に立地しており、境内入口は境内の北側にあります。入口には一の鳥居が北向きに建っています。
一の鳥居をくぐった様子。左右に玉垣の並ぶ参道は南へまっすぐ伸び、社務所に突き当たります。
社務所手前の左側(東側)に手水舎があります。
そして社務所手前の右側(西側)に二の鳥居が東向きに建っています。その奥の東側の広い区画が社殿等の建つ神聖な空間となっています。
二の鳥居をくぐって正面に社殿が東向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造。比較的新しい建築のように感じられます。
『大和志』に「松樹一株樹下に小祠あり」と記された当社も、今では逆に社殿の下に小さな松が一対並んでいる格好となっており、遷座があったらしいことも相まって当社の様子は大きく様変わりしていることが窺えます。
社務所と拝殿の間には長い屋根付き廊下が渡されており、荒天時でもスムーズに往来ができるように設備が整えられています。
拝殿後方は塀に囲われて銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。こちらも比較的新しい建築でしょう。
本社拝殿の右側(北側)に「稲荷神社」が東向きに鎮座しています。御祭神は「倉稲魂命」。
真っ赤な鳥居が建ち、その後方には桟瓦葺・平入切妻造の一面に朱の施された社殿が建っています。
稲荷神社の右側(北側)に「金刀比羅神社」が東向きに鎮座。御祭神は「大物主命」。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
金刀比羅神社の右側(北側)には「八幡神社」が東向きに鎮座。御祭神は「誉田別命」。
社殿は銅板葺の春日見世棚造で、正面に鳥居が設けられています。
上記の本社拝殿右側(東側)の三社を引きで見た様子。このように並んでいます。
一方、本社本殿のさらに奥側(西側)にも境内社が鎮座しています。
本社本殿後方の玉垣に囲まれた区画内に「天照皇大神宮」が東向きに鎮座。御祭神は「天照皇大御神」。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
天照皇大神宮の右側(北側)、玉垣の外側に「椿山神社」が東向きに鎮座。御祭神は「宇迦之御魂神」。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
椿山神社のさらに右側(北側)の森の中に「春日神社」が東向きに鎮座。御祭神は「天児屋根命」。
社殿は銅板葺の春日造で、かなり色褪せていますが朱などの彩色が施されています。
当社内の他の社殿と比べても格段に古い建築と思われ、本社の旧本殿だったか、もしくは神社合祀の際に旧社の本殿を持ってきたものだったかもしれません。
境内社の中でも春日神社にだけ社殿前に狛犬が配置されています。花崗岩製のもの。
道を戻ります。当社の参道途中の右側(西側)に鳥居が建っており、その奥に「天満神社」が東向きに鎮座しています。御祭神は「菅原道真公」。
社殿は銅板葺の一間社流造。上記の八幡神社の手前側(東側)にあたる立地です。
境内周辺の様子
櫛羅の集落は古い家屋がよく残っており、古い町並みが今でも見られます。
幕末の文久三年(1863年)、当地を領していた新庄藩は櫛羅が領内でも特に栄えていたため陣屋を櫛羅の地に移し、櫛羅藩を立藩しました。
すぐに明治維新を迎えたため短命の藩でしたが、一時でも藩政の中枢が置かれた地です。
当社付近から葛城山を眺めた様子。具体的な場所は不明ながら、葛城山の中腹のどこかにかつて当社が鎮座していたと思われます。
まさに「山口」に相応しい地だったのでしょう。
当地付近は「葛城の道」として整備されており、秋の彼岸の前後には彼岸花の多く割く名所として知られています。
この時期は葛城山を前にして金色に輝く稲穂と深紅の彼岸花の対比がよく映え、非常に美しい光景となります。
御朱印
由緒
案内板
鴨山口神社
案内板
鴨山口神社
地図