社号 | 夜比良神社 |
読み | やひら |
通称 | |
旧呼称 | 八枚明神、八尋社 等 |
鎮座地 | 兵庫県たつの市揖保町揖保上 |
旧国郡 | 播磨国揖西郡上村 |
御祭神 | 大己貴神 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月9日~10日 |
式内社
式内社
夜比良神社の概要
兵庫県たつの市揖保町揖保上に鎮座する式内社です。
兵庫県神社庁HPの記す由緒によれば、当社の御祭神「大己貴神」は出雲国を開拓した後に因幡国を経て播磨国に入り、「伊和神社」(宍粟市一宮町須行名)に鎮座した後に揖保川に沿って南下し、粒丘に足を留めこの地を開き災禍を祓い除いたので、伊和神社を「北方殿」、当社を「南方殿」と呼ぶ、としています。
これは『播磨国風土記』の西部地域の記事に描写される伊和大神=葦原志許乎命=大汝命(大己貴神)の事跡に基づくもので、この伊和大神が外来の神である天日槍命と土地の占有を激しく争った様子が描かれています。
その様子は揖保郡の沖から始まり、葦原志挙乎命(=伊和大神)が国占めのため粒丘(イヒボヲカ / 現在の「中臣印達神社」の鎮座地に比定)に登った様子がまず描かれています。(詳細は「中臣印達神社」(揖保町中臣)の記事を参照)
『播磨国風土記』では国占めのために伊和大神らがここから北上していく様子が描かれているのに対し、上記の当社由緒では逆に北方から南下していくものとなっています。
『播磨国風土記』が世に知られるようになったのは江戸時代末期以降で、上記の由緒もそれ以降に作出されたものと思われるものの、何らかの当地の伝承が組み込まれている可能性も考えられるかもしれません。
ただし当社の御祭神は『神社覈録』には不詳とあり、江戸時代以前に当社の祭神について記した記録は見当たらず、また伊和神社を「北方殿」当社を「南方殿」と呼んでいた記録もこれまた見当たらず、そのような伝承が古くからあったのかはやや疑問です。
とはいえ当社は江戸時代には「八枚明神」「八尋社」等と呼ばれていたといい、式内社「夜比良神社」を所在不明とする文献もある(『神名帳考証』等)ものの、当社に比定するのは妥当と言えることでしょう。
とすると当社の北東約500mほどの中臣地区には有力な式内論社の「中臣印達神社」が鎮座し、さらに同社には式内社「阿波遲神社」を合祀していることから、揖保郡の式内社七社の内三社がこの狭い範囲内にあることになります。
なお、『神祇志料』は式内社「阿波遲神社」を当社に比定しているもののその根拠ははっきりせず、手違いの可能性が高いと思われます。
境内の様子
当社は揖保上地区(旧・上村)の集落の西方、揖保川の左岸の畔に鎮座しています。
揖保川は流路の変更があり、かつては当社の東方を流れていたといい、そのため当地は揖保川の東側にありながら揖西郡に属していました。
当社は参道が非常に長く、社殿の南方約250mほどのところに入口があり鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。長い参道は針葉樹の並木となっており、灯籠も奥までズラッと並んでいます。
この参道をひらすら進んでいくと砂利敷の広い空間へと至ります。
この空間の右側(東側)に手水舎が建っています。
正面奥には社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造。
拝殿前には狛犬、注連柱が配置され、さらにその手前には盛り砂も設けられています。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿後方には鳥居と中門が建ち、その奥に玉垣に囲まれて銅板葺の一間社入母屋造に向拝の付いた本殿が建っています。
本社本殿の右奥(北東側)には二社の境内社が南向きに並んでいます。
これらの内、左側(西側)に「建速神社」が鎮座。
桟瓦葺の平入切妻造の割拝殿と、その後方に銅板葺の一間社流造の本殿が建っています。
右側(東側)には「稲荷神社」が鎮座。
建速神社と同規格の社殿が建っており、その手前側には八基の朱鳥居が並んでいます。
境内の南西側には本瓦葺の平入入母屋造の舞台が建っています。西播磨ではこのような舞台を多く見かけることができます。


由緒
案内板
延喜式内 夜比良神社御由緒
地図
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