社号 | 阿宗神社 |
読み | あそう |
通称 | |
旧呼称 | 弘山八幡宮、阿宗神社八幡大神宮 等 |
鎮座地 | 兵庫県たつの市誉田町広山 |
旧国郡 | 播磨国揖東郡広山村 |
御祭神 | 神功皇后、応神天皇、玉依姫命、息長日子王 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月第3日曜日 |
式内社
阿宗神社の概要
兵庫県たつの市誉田町広山に鎮座する式内社です。
社伝によれば、欽明天皇三十二年、播磨国司の大伴狭手彦が勅を奉じて「宇佐八幡宮」(大分県宇佐市南宇佐に鎮座)から神を立岡山に勧請し、文治五年(1189年)に内山城主の塩津義経が現在地に遷座したと伝えられています。
大伴狭手彦とは道臣命の十世孫にあたる人物で、新羅に攻められた任那を救ったり高句麗を討伐したりするなど主に朝鮮半島の有事で活躍した人物です。
しかしこの人物が播磨国司だった記録は無く、そもそも欽明天皇の時代には当然ながら令制国は成立しておらず国司という役職がそもそも無かったはずです。
また「宇佐八幡宮」の社伝では八幡神が欽明天皇三十二年に顕現したとするため当社社伝における勧請の年代もそれに合わせたものと思われますが、到底無理のある話でしょう。
当社が式内社「阿宗神社」であるならば本来は八幡神とは別の神が祀られていたはずであり、後世に八幡信仰が広まり八幡神が勧請されたものと思われ、上記の社伝もそれ以降に成立したものと考えられます。
ただ、当社の旧地であるという「立岡山」(当社の南南東2.2kmほど)は『播磨国風土記』に記す「御立阜(ミタチヲカ)」に当たると考えられ、それによれば品太天皇(=応神天皇)がこの丘に留まって国見をしたのでそう名付けたとあり、偶然か必然かは定かでないものの非常に古くから八幡神を構成する応神天皇ゆかりの地ではあったようです。
一方、『古事記』開化天皇の段に息長日子王は針間阿宗君らの祖とあり、当社の奉斎氏族としてこの「針間阿宗君」が考えられます。
この氏族は『新撰姓氏録』に登載されていないため詳らかでないものの、父である息長日子王は息長宿禰王の子で、開花天皇の子である彦坐王の子孫にあたります。
この「針間阿宗君」が当地に居住し、祖である「息長日子王」もしくは「息長宿禰王」を祀ったのが当社だった可能性が高いと言えることでしょう。
当地の旧地であるという「立岡山」は現在は新幹線が貫き東麓に「立岡天満宮」が鎮座しています。ただ、この神社が旧地であるかははっきりせず、或いは山上にあった可能性も考えられます。
谷川健一編の『日本の神々』によれば、立岡山から現在地へ遷座する前にもう一ヶ所旧地があったといい、その地は国道2号の南にある旧国道(県道725号か?)の、当社の道標の南あたりであろうとしています。(ただしその近辺に道標は確認できない)
同書が伝承に見えない旧地を想定している理由は不明ながら、当社の南方、林田川の左岸側に「阿曽」の地名があり、恐らくこれを当社に関係するものとしたのではないかと思われます。
確かに「阿曽」の地名は式内社「阿宗神社」に関わるものと見るのが妥当で、その地に当社の旧地があったと考えるのは一つの憶測として筋が通っており、可能性としては考えられるかもしれません。ただし、やはりそのような伝承が無く、地名以外の痕跡も特に無い以上は何とも言えないところでしょう。
現在の当社の御祭神は「神功皇后」「応神天皇」「玉依姫命」で、相殿として「息長日子王」を祀っています。この内、神功皇后と応神天皇は八幡神で、玉依姫命は元は比売神だったのを誤って伝えたものと考えられているようです。
また当社の境内社に「元宮社」があり、「阿蘇親王」を祀っています。江戸時代の地誌『播磨鑑』にも当社の祭神を「阿宗親王」としており、これは恐らく針間阿宗君の祖である「息長日子王」もしくは「息長宿禰王」なのでしょう。現在は上述のように名は違えど同神を相殿として祀っています。
当社が式内社であるならばこの「阿蘇親王」が本来の御祭神だったものと思われ、後世に八幡神が主祭神となった際に境内社として脇へ追いやられたのでしょう。
境内の様子
当社は広山地区の集落北端に立地しています。
鳥居は境内の少し南に離れた道路上に南向きに建っており、自動車衝突防止のガードが設けられています。
鳥居をくぐったところに神門が建っており、境内入口となっています。
神門は本瓦葺の平入切妻造の四脚門。
神門をくぐって左側(西側)に手水舎が建っており、手水鉢と井戸が設けられています。
神門をくぐった先は広い空間となっており、石畳がまっすぐ伸び、その正面奥に注連柱と社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に千鳥破風と軒唐破風の付いた割拝殿。
拝殿前に配置されている狛犬。
割拝殿内の屋根裏には非常に多くの絵馬が掲げられています。
拝殿後方に建つ幣殿。鈴の緒はこの幣殿に設けられており、拝殿としての機能を併せ持っています。
本瓦葺の妻入切妻造で、屋根の前方を延長して割拝殿と一体化しています。
そして側面に唐破風の庇が設けられ出入口となっているのも大きな特徴。
幣殿後方の基壇上、玉垣に囲まれて銅板葺の三間社入母屋造の本殿が建っています。
本社本殿の後方(北側)の森の中に「コ」の字形の通路があり、ここに沿って八社の境内社が南向きに並んで鎮座しています。
これら八社は左側(西側)から順に次の通り。
- 「稲荷社」(御祭神「保食神」)
- 「元宮社」(御祭神「阿蘇親王」)
- 「建速神社」(御祭神「素戔鳴尊」)
- 「金刀比羅神社」(御祭神「大物主命」)
- 「高良神社」(御祭神「武内宿弥」)
- 「春日神社」(御祭神「天児屋根命」)
- 「伊勢皇大神宮」(御祭神「天照皇大神」)
これら八社の社殿はいずれも同規格の一間社流造。
最も左側(西側)にある稲荷社の手前側の通路には多くの朱鳥居が建ち並んでいます。
道を戻ります。本社拝殿の左側(西側)に本瓦葺の妻入入母屋造の建物が建っています。用途不明。舞殿でしょうか?
本社拝殿の右側(東側)には神庫等が建っています。
由緒
貼紙
式内阿宗神社由緒書
地図