社号 | 相賀八幡神社 |
読み | おうがはちまん |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県橋本市胡麻生 |
旧国郡 | 紀伊国伊都郡胡麻生村 |
御祭神 | 誉田別尊、足仲彦尊、気長足姫尊 |
社格 | 旧郷社 |
例祭 | 10月第2日曜日 |
相賀八幡神社の概要
和歌山県橋本市胡麻生に鎮座する神社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
当社には「八幡大菩薩」と揮毫された正平二十一年(1366年)の扁額が伝わっており、この頃には八幡神を祀る神社として所在していたようです。
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』の引く『寛文記雑記』によれば、当地を領した坂上氏が「石清水八幡宮」(京都府八幡市に鎮座)を勧請し社殿を造営して神主および社僧を置き、石清水八幡宮の祭式で神事を行い、後に文亀二年(1502年)に再興するも天正九年(1581年)に兵火に遭ったとしています。
その後天正十四年(1586年)に贄川海部なる人物が社殿を造営して再興されたものの、それまであった神宮寺は以降も廃絶したままとなったようです。
また『紀伊続風土記』は、紀伊国の国内神名帳『紀伊国神名帳』の伊都郡に見える「正五位上 天手力雄氣長足魂住吉神」は当社であるとしています。
ただしその根拠は示されていません。そのような伝承があったのか、当社に天手力雄神や住吉神を祀っていた痕跡があったのかもはっきりしません。
江戸時代後期の地誌『紀伊国名所図会』では『紀伊国神名帳』の「天手力雄氣長足魂住吉神」を当社でなく高野口町名古曽に鎮座する「住吉神社」に比定しており、江戸時代から諸説あったようです。
この「天手力雄氣長足魂住吉神」は「住吉大社」(大阪市住吉区住吉に鎮座)に伝わる古文書『住吉大社神代記』では「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」とやたら長い名で見えています。
同記はこの神について、毒が九の国領に満ちて貢調が滞っていたとき、文忌寸材満なる人物がこれを鎮めるために祈願して神を祀り、その子孫の氏神とした旨が記されています。
「文氏」は漢系の渡来系氏族ですが、この氏族の人物が「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」なる神を祀った理由は不明。
このやたらと長い「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」なる神名を分解すれば、概ね次のように解釈することが可能でしょう。
- 「丹生川上」→ 丹生川の上流に鎮座している?
- 「天手力男」→ 文字通りタヂカラオを祀る。
- 「意氣續流」→ 『紀伊国神名帳』では「氣長足魂」となっており、息長帯姫命(神功皇后)に関連するか?
- 「住吉大神」→ 文字通り住吉大神を祀る。
息長帯姫命(神功皇后)と住吉大神の関連性が深いことは言うまでもありません(詳細は「住吉大社」の記事を参照)が、タヂカラオを共に祀ることは不可解です。
『延喜式』神名帳には紀伊国牟婁郡に「天手力男神社」が記載されており、牟婁郡とは離れた地ながら、那賀郡の「海神社」(紀の川市神領に鎮座)でも牟婁郡の海岸から紀ノ川沿いに遷座したことが伝えられており、「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」でも同様だったのかもしれません。
また伊都郡内では九度山で紀ノ川に合流する丹生川があり、「丹生川上」を冠することを考慮すれば、「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」は当社でも名古曽の「住吉神社」でもなく、この丹生川沿いのどこかに求めるべきでしょう。ただ、現状ではそれらしい神社は全く見当たりません。
この点について、『住吉大社神代記』では神領の明石郡魚次濱の記事で、神功皇后の三韓征伐の後に住吉大神が紀伊国の藤代嶺に鎮座したことを記しており、この藤代嶺とは丹生川の上流にあたる現在の高野町東部の山に比定されています。
とすれば「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」とはこの藤代嶺に鎮座したという住吉大神と関係がある可能性も考えられるかもしれません。
一方で丹生川沿いのどこかにあったと思しき「丹生川上天手力男意氣續流住吉大神」が後世に当地もしくは名古曽に遷座したことも考えられ、当社もしくは名古曽の「住吉神社」が後継社である可能性もゼロではないでしょう。
当社が果たしてこれに関係するかは現状では何とも言えませんが、当地周辺における有力な神社であり、それなりに歴史ある神社であることは間違いありません。
境内の様子
当社の鳥居は境内の南方200mほどの地に離れて南向きに建っています。
鳥居は朱塗りの両部鳥居で、稚児柱は黒に塗られています。
鳥居から道を進んでいくと当社境内へと至ります。
境内は玉垣等の仕切るものが何も無いことに加え、手前側は樹木が乏しいことから極めて開放的な空間となっています。
この広々とした境内の左側(西側)に手水舎が建っています。手水鉢は元禄十三年(1700年)に奉納されたもの。
コンクリートで舗装された参道の奥に、桟瓦葺の平入入母屋造に通路部分が段違い屋根となった割拝殿が南向きに建っています。
通路部分の左右一間分のみ床が設けられているのが特徴。
割拝殿の通路部分にはいくつかの絵馬が掲げられています。
割拝殿の通路をくぐり抜けると正面奥にもう一つの拝殿が南向きに建っています。
こちらの拝殿は銅板葺の平入入母屋造に唐破風の向拝の付いたもの。
和歌山県神社庁HPによればこちらの建物は「幣殿」のようですが、鈴の緒や賽銭箱が設置されており、機能的にはこれこそが拝殿であると言うべきでしょう。
拝殿(幣殿)の手前に配置されている狛犬。
後方に建つ本殿は銅板葺の三間社流造。
朱塗りを下地にしつつ、騎馬武者や松、鷹、龍、亀などを始めとして様々な絵が本殿の全体に描かれており、しかもかなり彩度が高く極めて派手な印象を受けます。
社殿に絵を施す例は各地に見られるものの、ここまで煌びやかな例はなかなか無いでしょう。まさに本殿をキャンバスに見立てたものと言えそうです。
本社本殿の右側(東側)に境内社がまとまって鎮座しています。奥側(北側)から順に見ていきます。
この空間の最奥部(北側)に二社の相殿が鎮座しています。祀られているのは次の通り。
- 左側(西側):「河原若宮大明神」(御祭神「仁徳天皇」)
- 右側(東側):「弁財天社」(御祭神「弁財天」)
社殿は銅板葺の流見世棚造二棟を横に連結したもの。彩色が施され、後者の扉には琵琶の絵が描かれているのが特徴。
二社の相殿の右手前側(南東側)に「五社大明神」が西向きに鎮座。
御祭神は左側(北側)から順に「大己貴命」「宗像三女神」「大山祇命」「保食命(豊受大神)」「天照大神」。
社殿はトタン屋根の五間社流見世棚造。
五社大明神の右側(南側)に「八王子神社」が西向きに鎮座。御祭神は「五男三男神」で、「須佐男命」を配祀しています。
社殿はまっすぐなトタン屋根の春日見世棚造。
八王子神社の右側(南側)に「猿田彦神社」が西向きに鎮座。御祭神は「猿田彦命」。
社殿はトタン屋根の一間社流造で、彩色が施されたもの。
割拝殿の左側(西側)には鐘楼があります。当社は天正年間には早くも神宮寺が廃絶したものの、その後寛政六年(1794年)に梵鐘が奉納されています。
その梵鐘は昭和十七年(1942年)の金属供出で敢無く差し出されたものの、近年再び梵鐘が奉納されたようです。
梵鐘
地図