社号 | 鞆淵八幡神社 |
読み | ともぶちはちまん |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県紀の川市中鞆渕 |
旧国郡 | 紀伊国那賀郡中番村 |
御祭神 | 応神天皇、仲哀天皇、姫大神 |
社格 | 旧県社 |
例祭 | 10月15日 |
鞆淵八幡神社の概要
和歌山県紀の川市中鞆渕に鎮座する神社です。
当社の創建年代は詳らかでありませんが、当地は古くから「石清水八幡宮」(京都府八幡市に鎮座)の荘園(鞆淵荘)だったため、平安時代後期に同宮から別宮として勧請されたのが当社と考えられます。
当地は元弘三年(1333年)に後醍醐天皇の勅により高野山領となったものの、元より石清水八幡宮と関係の深い地であったため住民は高野山に抵抗し度々争ったと伝えられています。
当社には数多くの文化財が伝えられており、中でも当社に伝わる神輿「沃懸地螺鈿金銅装神輿」は平安時代末期~鎌倉時代初期のものと推定され、現存最古級の神輿として国宝に指定されています。
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』によれば、安貞年間(1227年~1229年)に荘司(荘園の管理人)の先祖の妹に「鶴千代姫」なる人物がおり、朝廷に仕えて天皇の寵愛を受け、後に故郷へ帰る際に八幡神社が産土神であることから石清水八幡宮の祭式に象らせて神輿を贈ったと記しています。
鶴千代姫(鶴姫)は伝説化した絶世の美女として伝えられており、父親が鶴姫に叱った際に投げた木枕が半分に割れ、居たたまれなくなった鶴姫がその半分を持って家出して宮仕えしたものの、後に兄の千楠丸が難関を掻い潜って鶴姫を探し、残り半分の木枕とを照合して対面を果たした物語が知られています。
ただ、『紀伊続風土記』は鶴千代姫の兄である千楠丸は応永年間(1394年~1428年)の人物であるため年代に矛盾があり、鶴千代姫に神輿を贈ったとする伝承は誤伝であろうとしています。
そもそもこの神輿は上記のように平安時代末期~鎌倉時代初期のものと推定されており、安貞年間よりも遡ると見られています。
様々な点で矛盾が見受けられるものの、当地で知られた鶴千代姫(鶴姫)の伝説に仮託することでより馴染み深く由緒ある神宝として人々に親しまれたものでしょう。
一方、当社の本殿は寛正三年(1462年)に造営されたもので、室町時代の特徴が見られる貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
また境内には「大日堂」と呼ばれる大規模な仏教建築があり、建立年代は不明なものの室町時代前期の建立と推定され、貴重な建築であると共に神仏混淆の様子を伝えるものとしてこちらも国指定重要文化財となっています。
紀伊国の寺社は天正年間の織田信長や豊臣秀吉による紀州攻めで多くが焼失しており、その中にあって当社はそれ以前の建築を残す点で極めて貴重な神社と言えます。
また当地は平地の極めて乏しい山間の地でありながらもこのように数多の古く貴重な文化財を伝えており、当社の歴史が偲ばれます。
高野山に近い地にあって一時はその領地になりつつも、また別勢力に属する神社として抵抗したことを思えば、当社や当地住民の自主性、独立性は実に強力なものだったことでしょう。
当社はこうした当地住民の結束の場として精神的な拠所であったと共に、当社に伝わる神宝は結束の象徴でもあったことが想像されます。
境内の様子
境内入口。山間の地に立地しており、山麓から中腹へと石段が東へ伸びています。
鳥居や灯籠、社号標等は無く、神社の規模の割には地味な入口で、看板が無ければ神社の入口とはわかりにくいものとなっています。
石段途中の様子。石段は当地に多く産する結晶片岩で、周囲は鬱蒼とした木々に覆われています。
特に杉の巨樹が多く、中でも境内の三本の杉は市指定自然保存木となっています。(後述)
石段の突き当りを左(北側)へ曲がると、石段上に朱鳥居が南向きに建っています。
鳥居をくぐった様子。やや開けた空間となっており、正面奥に石段が、右側(東側)に大日堂(後述)があります。
鳥居の右側(東側)に手水舎が建っており、手水鉢の奥には巨大な水槽が設置されています。
この石段上の狭い空間に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造で、土間となっており前後には壁の無い開放的な構造です。
拝殿後方、瑞垣の設けられた石垣の上に建つ本殿は、檜皮葺の三間社流造に向拝が付き、朱等の極彩色が施されたもの。
この本殿は本殿は寛正三年(1462年)に造営されたもので、室町時代の特徴が見られる貴重かつ優美な建築として国指定重要文化財となっています。
本社本殿の左側(西側)に三社の境内社が南向きに並んでおり、右側(東側 / 本社本殿に近い側)から順に次の神社が鎮座しています。
- 「高良神社」(御祭神「武内宿禰」 / 社殿は銅板葺の三間社流造)
- 「剱御前神社」(社殿は銅板葺の流見世棚造)
- 「戎神社」(社殿は銅板葺の二間社(?)流見世棚造)
この内、高良神社の社伝は江戸時代中期の建立で紀の川市指定文化財となっています。
反対側、本社本殿の右側(東側)には「若宮神社」が南向きに鎮座。御祭神は「仁徳天皇」。
社殿は銅板葺の三間社流造で、高良神社と同様に江戸時代中期の建立で紀の川市指定文化財となっています。
若宮神社と高良神社は弘安二年(1275年)には既に当社の摂社となっていたことが記録から知られています。
案内板
紀の川市指定文化財
本社拝殿の左手前側(南西側)に下段へ下りられる石段があり、その途中に小さな境内社が南向きに建っています。
社名・祭神は不明。社殿は銅板葺の妻入切妻造。
道を戻ります。石段と鳥居の間の右側(東側)に、前述のように「大日堂」と呼ばれる仏教建築が建っています。
本瓦葺の寄棟造で、五間四方の大規模な建築。建立年代は不明なものの室町時代前期の建立と推定されており、貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
当社の神宮寺は明治年間の神仏分離で廃寺となったものの建築はこのように残ったようで、神仏混淆の様子を伝えるものとしても価値あるものでしょう。
大日堂の向かい、石段下の左側(西側)に神楽殿が建っています。
桟瓦葺の妻入入母屋造。
神楽殿の左側(西側)に宝蔵庫が建っています。RC造の妻入切妻造。
ここに数多くの文化財が保管されているのでしょう。
境内の西側に、宝蔵庫とは別に「神輿庫」が東向きに建っています。
RC造の流造状の建物で、国宝に指定されている神輿「沃懸地螺鈿金銅装神輿」はこちらに厳重に安置されているようです。
上述のように当社には三本の杉の巨樹が紀の川市指定自然保存木となっています。
境内入口から順に石段途中の「下の木」、石段突き当りの「中の木」、手水舎横の「上の木」の三本で、いずれも胴回り5m以上、高さ20m以上となっています。
案内板
紀の川市指定自然保存木
当社周辺の様子。
当地は平地の乏しい山間の谷間ですが、平安時代に「石清水八幡宮」の荘園(鞆淵荘)となり、古くから開発されたようです。
由緒
案内板
国指定文化財 建造物 鞆渕八鳴神社本殿 附 棟札八枚
地図