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宗像神社 (奈良県桜井市外山)

社号宗像神社
読みむなかた
通称
旧呼称春日社、中島社 等
鎮座地奈良県桜井市外山
旧国郡大和国式上郡外山村
御祭神多紀理比売命、市寸嶋比売命、田寸津比売命
社格式内社、旧村社
例祭10月19日

 

宗像神社の概要

奈良県桜井市外山に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは非常に有力な神社でした。

当社に関しては『三代実録』のいくつかの条に言及があります。

まず『三代実録』元慶四年(880年)三月二十七日の条に、大和国城上郡の宗像神を官社に預からしめ、太政大臣(藤原冬嗣)の東一條第に鎮座し、筑前国宗像郡に鎮座するのは同じ神の別社である、と記しており、これが当社の初見です。

続く翌年の元慶五年十月十六日(881年)の条には、大和国城上郡従一位勲八等宗像神社を筑前国本社に准じて神主を置き、高階真人氏を神主とする旨を記しています。

『新撰姓氏録』左京皇別に天武天皇の皇子、浄広壱太政大臣高市王(=高市皇子)を出自とする「高階真人」が登載されており、大和国には登載されていませんが、『三代実録』にあるようにこの氏族が当地に居住し宗像神を祀ったのが当社です。

高階氏は天武天皇の第一皇子である高市皇子を祖としており、高市皇子の母である尼子娘(あまこのいらつめ)は宗形徳善の娘です。

つまり高市皇子の外戚は福岡県宗像市に鎮座する「宗像大社」を奉斎した宗形氏の出身であり、この縁により宗像大社の神を勧請し、子孫たる高階氏が奉斎したのが当社と考えられます。

このように、当社の創建年代は詳らかでありませんが、当社の創建の事情は比較的はっきりとしています。ただし、高階氏による勧請が創建でなく、それ以前に宗形氏が当地に居住して宗像神を勧請し後に高階氏が祭祀を継承したとする説もあります。

 

上記のように名神大社に列せられた上、元慶五年には従一位となっており、古くは極めて有力な神社でしたが、『延喜式』以降は正史には見えなくなります。

しかし高階氏の後裔である玉井氏が中世以降の当社の様子を伝えており、それによれば概ね次のようになっています。

  • 南北朝時代に高階義峯が南朝に味方したが、興国二年(1341年)に渡辺渡との鵄(トビ)村(=当地一帯)での合戦により鳥見山の中腹にあった当社も兵火に罹って焼亡。
  • その結果、社殿は荒廃し社領を失い衰退。
  • その後興福寺の領地となり、この縁で春日明神および春日若宮を勧請し、「春日社」と称する。宗像神社は形骸化。
  • 正平九年(1354年)、高階忠正が自邸内に宗像神社の神霊を遷し「中島宗像社」と称して奉斎。
  • 天正十八年(1590年)に玉井忠滋が自邸の祠と別に旧社地に再興し、春日社と併せて祭祀。
  • 幕末になって鈴木重胤の尽力により、安政六年(1859年)に改めて「宗像大社」から宗像神を勧請、翌万延元年(1860年)に社殿を造営。
  • その後明治八年(1875年)に「宗像神社」に復し、明治二十一年(1888年)に宗像神を主祭神とする体裁に改めて現在に至る。

このような歴史を辿ったとされており、途中春日社となるなど紆余曲折がありつつも現在は再び宗像神社として祭祀されています。

衰退時に勧請された春日神および春日若宮神は現在も境内社として本社本殿の左右に祀られています。

 

現在の御祭神は「多紀理比売命」「市寸嶋比売命」「田寸津比売命」で、いわゆる宗像三神です。『延喜式』神名帳にも三座と記されており、当初もこの三柱が祀られていたのでしょう。

宗像三神は本来は海の神ですが、当地は海から離れた地であり、やはり海神というよりは高階氏の外戚の氏神として祭祀された側面が強かったのでしょう。

 

境内の様子

当社は鳥見山の北麓に鎮座しており、入口には北向きの鳥居が建っています。

当社の鎮座地「外山(トビ)」は難読地名で、鳥見山と同根であると考えられます。

 

鳥居をくぐってすぐ左側(東側)に手水舎が建っています。

 

鳥居をくぐった様子。砂利が敷かれた参道に石畳がまっすぐ南へ伸びています。

東・南・西が山に囲まれた地形となっており、昼間でも太陽の光の届きにくい境内となっています。

 

参道に沿って複数の境内社が鎮座しており、都合上、先にこれら境内社を紹介します。

参道途中の左側(東側)に「おはらい所」とされる境内社が西向きに鎮座。

西向きに鳥居が建ち、奥に銅板葺・流見世棚造の社殿が建っています。

奈良県の大規模な神社では参道途中に「祓戸神社」が鎮座し、本社参拝前に参拝することで穢れを祓い身を清める風習が見られます。この「おはらい所」も恐らく同様のものでしょう。

 

「おはらい所」と参道を挟んで向かい合うようにして「琴平神社」が東向きに鎮座。

東向きの鳥居が建ち、狛犬が配置され、その奥に基壇上に塀に囲まれて銅板葺・流見世棚造の社殿が建っています。

 

さらに参道を進むと左側(東側)に境内社が西向きに建っています。こちらの境内社は社名を表示するものが無く名称不明です。

手持ちの資料には境内社として「六所神社」「宮谷神社」が記されており、恐らくそのどちら、或いは両社の相殿でしょう。

西向きの鳥居が建ち、その奥の石段上に塀に囲まれて銅板葺・流見世棚造の社殿が建っています。

 

名称不明の境内社から参道を挟んで向かい側にこのような一画があり、「山神」と刻まれた石碑が建って祀られています。

注連縄が掛けられ、蝋燭も立てられています。詳細不明ながら、鳥見山の神を祀っているのでしょうか?

 

さらに参道を進むとちょっとした石段があり、その上の広い空間の左奥(南東側)に本社社殿が西向きに建っています。

 

拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造りに妻入入母屋造の向拝の付いたもの。平成二十一年(2009年)に建て替えられておりかなり新しい建築です。

 

拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製でこちらも新しいもの。

 

拝殿後方、玉垣奥に塀に囲われて本社の本殿、およびその左側(北側)に「春日若宮社」、右側(南側)に「春日社」の社殿が建っています。

社殿は本社本殿が銅板葺の一間社流造、春日若宮社と春日社がそれぞれ銅板葺の一間社春日造となっています。

 

当社境内の外へ。境内北側にある宗像会館のさらに北側に「子供神社」が西向きに鎮座しています。詳細不明ながら「鬼子母神」を祀っているようです。

西向きの鳥居をくぐると石段があり、その上に塀に囲まれて銅板葺・流見世棚造の社殿が建っています。

新しい神社のようですが社殿の傍らに配置されている狛犬は砂岩製で古めかしさが感じられます。

 

由緒から推して当社とは直接関わらないと考えられるものの、当社の西方250mほどの地に「桜井茶臼山古墳」があります。

墳丘長207mの巨大な前方後円墳で、古墳時代前期にあたる三世紀末~四世紀初頭頃に築造されたと考えられる極めて古い古墳です。

大王墓級の古墳ですが、近隣の巨大古墳であるメスリ山古墳などと同様、『延喜式』諸陵式などに記載が無く、被葬者は不明です。

案内板

史跡 桜井茶臼山古墳

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鳥見山北麓の尾根を利用して作られた大型前方後円墳(全長二〇七m 後円部径一一〇m、前方部幅六一mで葺石をほどこす。)で墳形・副葬品などから四世紀前半を下らない時期に造営されたわが国最古の部類に属す大規模な古墳の一つである。

昭和二四~二五年、橿原考古学研究所が発掘調査を行った結果、後円部中央に底部穿孔の壷形土師器を並べた長方形の壇とその内側に竪穴式石室を検出した。石室は偏平な割石を架したもので、内法の長さ六・八m、幅一・一m 高さ一・六mである。室内にはトガの巨木で造った刳抜式の木棺の一部が遺存していた。盗掘を受けていたが鏡片、勾玉、剣、銅鏃などの武器類、車輪石、鍬形石、などの腕飾類さらに玉杖、玉葉などの特異な碧玉製品が出土している。

昭和四十八年三月二十七日指定
奈良県教育委員会

 

タマヨリ姫
宗像の神様って海のイメージあるけどここは海から遠いところにあるんだね!
そうね。ここは高階氏が祖の高市皇子の母親が宗形氏出身だからってことで宗像神を祀ったとされているわ。
トヨタマ姫

 

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