社号 | 久度神社 |
読み | くど |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 奈良県北葛城郡王寺町久度4丁目 |
旧国郡 | 大和国葛下郡王寺村 |
御祭神 | 久度大神、八幡大神、住吉大神、春日大神 |
社格 | 式内社、村社 |
例祭 | 10月26日に近い日曜日 |
式内社
久度神社の概要
奈良県北葛城郡王寺町久度4丁目に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。延暦十三年(794年)に桓武天皇による平安京への遷都の際、当社から久度神を勧請して「平野神社」を創建したとされています。
一般に久度(クド)とは竈の意で、久度神は竈神であると考えられます。
本邦では古くから竈に神が宿ると考えられ、火の神であると共に家や家族を守る神であるとされてきました。また竈のある場所は家の薄暗い場所であり、火や水を使う特殊な場所でもあることから彼岸と繋がる境界的な場として捉える考え方もあります。
ただ、久度神がそのような神格だったのかは不明で、『倭名類聚抄』では「カマド」は飯を炊くもの、「クド」はカマドの後ろの穴、と厳密に区別しています。
一説には王寺町には百済系の渡来人が多く、彼らが祀った外来の竈神が久度神だったとする考え方もあり、中国北部から朝鮮半島にかけて信仰される「竈王神」の流れをくむとする説もあります。
桓武天皇の母である高野新笠は百済系の渡来系氏族である和氏の出身であるため、平安京への遷都に伴い当社の神が平野神社へ勧請されたのは当社が百済系の神だったからとも考えられるかもしれません。
一方で「久度神」とは物部氏の一族である「久努氏」の神であるとの説もあります。物部系の史書である『先代旧事本紀』には物部印岐美公を久努直らの祖としており、また遠江国に久努国造も見えます。
この説では久努氏が当地に居住して祖神を祀ったのが当社であるとしており、確かに近隣の河合町川合に鎮座する「廣瀬大社」など物部氏が当地付近に居住していた痕跡はありますが、物部氏の神ならば平安京遷都の際に勧請されたのは疑問です。
やはり何か朝廷が国家的に祭祀する積極的な理由があったと考えるべきでしょう。
『延喜式』神名帳には当社は平群郡に記載されていますが、近世以前には当地は葛下郡でした。大和川の対岸が旧・平群郡であり、当地は大和川が大きく北へ湾曲したところです。
大和川の流路はかつて現在と異なっていたのかもしれません。古くは当社の南方を流れ、当地は平群郡に属していたのでしょうか。
そうであるなら当社は大和側と葛下川の合流する地であったと思われ、水神的な神格もあったのかもしれません。
なお、当社は昭和四十三年(1968年)に平野神社から久度神を勧請しています。それ以前は本来の祭神である久度神を祀っていなかったということになり、平野神社が重視される一方で元々久度神の祀られていた当社は八幡大神などが勧請された一方、本来の信仰は忘れられていったことが窺えます。
境内の様子
境内入口。当社は王寺駅の北西、大和川の大きく北側へ湾曲した北西の畔に立地しており、大和側に背を向けて鎮座しています。
入口には車止めの柵が設けられ、社殿まで一直線に参道が伸びています。
当社の境内は針葉樹が多いですがカエデの木もあり、秋には美しく染まります。
参道を進んでいくと正面に鳥居が南東向きに建っています。掲げられている扁額には「德維馨」と書かれています。
鳥居の両脇に配置されている狛犬。砂岩製で、それぞれ紅白の涎掛けが付けられています。
鳥居をくぐって左側(南西側)に手水舎があります。
鳥居をくぐって正面に社殿が南東向きに建っています。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造で朱が施されたもの。桁行六間で、正面二間は二つ折りの観音開きの扉となっており、棟に対して桁行が異様に大きいのも特徴。
案内板によれば橿原神宮の古殿であるようです。
拝殿後方の基壇上に中門と透塀が建ち、その奥に本殿が建っています。しかし高所にある上に塀で囲われているため見ることはできません。
資料によれば四間に分かれた流造とのことなので恐らく四間社流造なのでしょう。
由緒
案内板
久度神社
案内板
久度神社
地図
関係する寺社等
平野神社 (京都府京都市北区平野宮本町)
社号 平野神社 読み ひらの 通称 旧呼称 鎮座地 京都府京都市北区平野宮本町 旧国郡 山城国葛野郡小北山村 御祭神 今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神 社格 式内社、二十二社、旧官幣大社 例祭 ...
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