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於美阿志神社 (奈良県高市郡明日香村檜前)

社号於美阿志神社
読みおみあし
通称
旧呼称御霊明神 等
鎮座地奈良県高市郡明日香村檜前
旧国郡大和国高市郡檜前村
御祭神阿智使主神夫妻二柱
社格式内社、旧村社
例祭10月9日

 

於美阿志神社の概要

奈良県高市郡明日香村檜前に鎮座する式内社です。当地の地名「檜前(ヒノクマ)」は『倭名類聚抄』大和国高市郡の「檜前郷」の遺称です。

当社は漢系の渡来系氏族「東漢(ヤマトノアヤ)氏」の氏寺と考えられる古代寺院「檜隈(ヒノクマ)寺」の跡に鎮座しています。

当社も御祭神として東漢氏の祖である「阿知使主(アチノオミ)」の夫妻を祀っており、東漢氏の氏神としています。

当社の社名「於美阿志」とは、「於美」は「使主」、「阿志」は「阿知」の意とし「阿知使主」のことであるとされています。

東漢氏は上述のように阿知使主を祖とする渡来系の氏族ですが、単一の氏族でなく来朝した数多の渡来系氏族が共通の祖を設けて集団化したものと見られ、彼らは檜前付近を拠点としたと考えられています。

そして檜前に居住した東漢氏が氏寺として創建したのが檜隈寺で、この寺院が彼らの統合の象徴として運営されていたことが推測されます。

現在残る遺構から檜隈寺がかなり大規模な寺院であったことが知られているものの、檜隈寺についての文献は少なく、正史ではわずかに『日本書紀』朱鳥元年(686年)八月の条に見えるのみとなっています。

中世以降は「道興寺」の名で呼ばれたものの、江戸時代にはかなり衰微しており本居宣長の記録によれば当時は仮の庵があるのみだったようです。

この庵もいつの頃か消滅し、檜隅寺の法灯は現在は断絶しています。

寺跡には基礎や基壇などの遺構が残っており、平安時代後期の石造十三重塔(国指定重要文化財)も相輪を欠くものの現存しています。

 

これに対して当社は江戸時代には「御霊明神」と称し、宇智郡(限・五條市北部)に多い御霊神社の信仰がいつの頃か勧請されたものと推測されます。

元々は西方に鎮座していましたが、明治四十四年(1911年)に檜隈寺跡である現在地に遷座しました。

 

『五郡神社記』の記述

一方、室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)には式内社「於美阿志神社」について全く異なることを記しています。

かなり長くなりますが、次のようにあります。

  • 当時は「磐橋神社」と称する。
  • 久米郷遠海(ヲウミ)村(遠海は奄知の転訛で、今は小網(ヲアミ)という)にある。
  • 伝承によれば当社は日本の鍛冶の祖神である。
  • 筆者が案ずるに、鍛冶の神である天目一箇神は高市連奄知造の祖である。
  • 『鍛冶日記』によれば、日本の鍛冶は大和国高市郡より起こるといい、神代の頃、石槌鉄鉗(イハツチカナハシ)の天下るところにより鉄鉗(カナハシ)庄といい、今は土橋と呼ぶ。
  • 『帝都遷宮記』によれば、安閑天皇の勾金橋宮は大和国高市郡勾川(マガリカハ)辺の金橋村にあり、今は磐橋村という。
  • 筆者が考えるに、昔石橋村と金箸村は後に一村となって磐橋村、または土橋村と呼び、勾川は蘇我川の末がここで少し北西へ曲がっているので曲川というのであろう。

つまり『五郡神社記』によれば式内社「於美阿志神社」は当時は「磐橋神社」と称し、小網なる地に鎮座し、鍛冶の神として祀られていた(そして阿知使主とは特に関係無い)ことになります。

小網とは漢字がやや異なりますが現在の橿原市小綱(ショウコ)町にあたると思われ、現在の当社と全く異なる地となっています。

小網・遠海は奄知が転訛したものとし、『新撰姓氏録』や『古事記』などは「奄智氏」の祖をアマツヒコネとあり、さらに『古語拾遺』などによればアマツヒコネの子を鍛冶神であるアメノマヒトツとしていることから、金属と関係の深いことを示唆しています。

このアメノマヒトツはアメノミカゲと同神とされており、『新撰姓氏録』では奄智氏と同祖の「額田部湯坐連」が天津彦根命の子、明立天御影命の後裔としていることから、奄智氏もまたアメノミカゲ(アメノマヒトツ)の後裔と考えられます。

 

また橿原市小綱町の西方1.5kmほどのところに橿原市曲川町があり、『五郡神社記』の言うようにこの辺りに安閑天皇の皇居「勾金橋宮」があったと推測されています。

金橋の地名は早くに消滅した(現在のJR金橋駅は明治年間に成立した金橋村によるもので、これは「勾金橋宮」に因んだ復古地名である)ようですが、この地名が金属に関連すると共に、「磐橋神社」の社名にも影響を与えたのではと『五郡神社記』は推測しています。

現在の橿原市小綱町には蘇我入鹿を祀る「入鹿神社」が鎮座するものの、「磐橋神社」らしき神社は周囲にも見当たらず、廃絶したか周囲の神社に取り込まれたものと見られます。

ただ『五郡神社記』が式内社「於美阿志神社」を何故この「磐橋神社」としたかは不明です。そのような伝承があったのか、それとも「遠海(ヲウミ)」が「於美」に通じるからか、残念ながら今となっては知る由もありません。

 

境内の様子

当社は檜前地区の南東、檜隅寺跡に鎮座しています。当社が当地に遷座したのは明治四十四年(1911年)で、元々は西方に鎮座していたようです。

境内の西側に入口があり、西向きの鳥居が建っています。

 

鳥居をくぐって左側(北側)に扇形の手水鉢が配置されています。

その傍らに鳥居型の石造物がありますが用途不明。手ぬぐい掛けでしょうか?

 

鳥居をくぐって正面奥に社殿が西向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺の平入切妻造で正面に妻入入母屋造の向拝が付いたもの。

 

拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。

 

拝殿後方、塀と瑞垣で二重に囲まれて銅板葺・一間社流造の本殿が建っています。

 

道を戻り、鳥居をくぐって右側(南側)には二宇ほどの石仏を安置する仏堂があります。

 

そこから境内を南へ進むと、右側(西側)に境内社が東向きに建っています。社名・祭神は不明。

社殿はトタン葺の春日見世棚造で、朱鳥居が建っています。

その左側(南側)にも仏堂があります。

 

さらに境内を南へ進むと、最奥部に境内社が北向きに建っています。こちらも社名・祭神は不明。

社殿は玉垣に囲まれた銅板葺の一間社流造。

この境内社のある辺りは檜隅寺の金堂のあった場所で、三間四方の建物跡が検出されています。

境内の南端であることから当初は中門跡と考えられていましたが、現在の鳥居の南側、つまり檜隅寺境内の西側にあった建物が中門であると考えられています。

南に中門を配置するのが原則である古代寺院には珍しく、西に中門があることになり、地形の制約によりこのような特異な伽藍配置になったと推測されています。

 

道を戻り、本社本殿の右側(南側)に平安時代後期の石造十三重塔があります。

石造十三重塔は多くが鎌倉時代以降の作であり、平安時代にまで遡るものは極めて珍しい例です。

相輪が欠けているものの、その貴重さから国指定重要文化財となっています。

この石造十三重塔のある辺りは檜隅寺の塔跡が検出されています。

 

一方、本社社殿の左側(北側)にやや小高い空間があり、ここは檜隅寺の講堂にあたります。

桁行七間、梁間四間の建築で、法隆寺の講堂にも匹敵する極めて大規模な建築です。まさに檜隅寺の中心的な建物だったことでしょう。

案内板

史跡 檜隅寺跡 講堂

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講堂は昭和56年に、奈良国立文化財研究所によって発掘調査され、建物の大きさと構造が判明した。行動基壇の規模は東西35.3m(120尺)、南北21.2m(72尺)、高さ1.2mである。基壇化粧には瓦積基壇を採用しており、後に玉石によって補修がなされている。

建物の規模は桁行29.4m(100尺)、梁間15.3m(52尺)の7間×4間の四面庇建物である。これは飛鳥寺や法隆寺西院伽藍の講堂に匹敵する大きさとなる。出土した瓦の年代から、講堂は塔と一緒に7世紀末頃に造られたと考えられる。

この講堂のような瓦積基壇をもつ建物は近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られるが、飛鳥では初めて見つかったものである。

また、瓦積基壇は朝鮮半島に多く見られる基壇化粧であることから、檜隅寺が渡来系氏族である東漢氏の寺として建てられたことを物語っている。

 

タマヨリ姫
渡来系の人達が神様を祀ったのがこの神社なんだね!大きなお寺もあったんだって!
そうね。ただ室町時代の『五郡神社記』という文書には全然違うことが書かれてるのが気になるところね。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板

於美阿志神社・桧隈寺跡

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桧隈は、百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神とする。桧隈寺跡は、その神社の境内にあり、塔・講堂と推定される建物跡をのこす。「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の寺名がみえ、寺跡からは、7世紀末の瓦が出土する。現在塔跡にある十三重石塔は上層の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。

明日香村
飛鳥保存財団

 

地図

奈良県高市郡明日香村檜前

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