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馬立伊勢部田中神社 (奈良県橿原市和田町)

社号馬立伊勢部田中神社
読みまたていせべたなか
通称
旧呼称八幡宮 等
鎮座地奈良県橿原市和田町
旧国郡大和国高市郡和田村
御祭神天児屋根命、豊受姫命、誉田別命
社格式内論社、国史現在社、旧村社
例祭10月16日

 

馬立伊勢部田中神社の概要

奈良県橿原市和田町に鎮座する神社です。

当社の創建・由緒は詳らかでありません。

式内社「御歲神社」を当社に比定する説がある一方、当社は江戸時代から国史現在社「馬立伊勢部田中神社」とされています。

式内社「御歲神社」と国史現在社「馬立伊勢部田中神社」は全く別の神社と見られ、現在の当社も前者でなく後者の神社であると見做されているようで、案内板にも「延喜の領幣に漏れたるを見れば」云々とあることから式内社を主張していないようです。

 

国史を見れば、『文徳天皇実録』仁寿二年(852年)四月二十四日条および同年十月二日の条に大和国の「御歳神」の神階昇叙の記事が見える一方、『三代実録』貞観九年(867年)正月二十五日の条に「馬立伊勢部田中神」の神階昇叙の記事が見えます。

その後延長五年(927年)に完成した『延喜式』神名帳には「御歳神社」のみが記載されており、両社は別の神社であることがわかります。ただし『延喜式』神名帳は『貞観式』をそのまま流用した可能性があり、その場合は論理的には両社が別である証明にならない点に一応注意が必要です。

また「馬立伊勢部田中神」の見える前年、『三代実録』貞観八年(866年)二月十三日の条に、大和国の三歳神に神主が無かったので新たに置いたところ祟りがあったためにやめたと記されています。どういうわけか祟りがあるため三(御)歳神社に神主がいなかったようです。

ただこの三歳神は葛上郡の式内社「葛木御歲神社」(御所市東持田に鎮座)のことであるとする説もあります。

 

式内社「御歳神社」はその名の通り「御歳神」を祀っていたものと考えられます。『古事記』においては須佐之男命と神大市比売の間に大年神が生まれ、大年神と香用比売との間に御年神が生まれたと記されています。

さらに忌部系の史書である『古語拾遺』ではより詳しい事跡が描写されています。

『古語拾遺』(大意)

大地主神が田を作っていたとき、牛の肉を農民に食べさせた。御歳神の子がその様子を父に報告したところ、御歳神は大いに怒り、イナゴを放って苗をたちまち枯らしてしまった。そこで大地主神が巫に占わせたたところ、御歳神の祟りであると判明し、白猪・白馬・白鶏を奉献すると御歳神の怒りは解けた。(以下略)

『延喜式』四時祭でも祈年祭において御歲社に白馬・白猪・白鶏を各一つずつ加えることが記されており、『古語拾遺』の記述の通りに実際に朝廷で祭祀していたことが窺われます。

 

一方、室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「御歳神社」について次のように記しています。

  • 逝回郷田口村大野陸(オホノノヲカノ)田畷にある。
  • 社家の説によれば、陸田(ヲカタ)神社は二座で、「保食神」とその子「大歳神」を祀る。(※注 記紀には保食神の子が大歳神であるとする記述は無い)
  • 石河楯なる人物が社殿を造営して祭祀したか。

当時は陸田神社なる社号だったようですが、二座であること、大歳神を祀ることから、これは式内社「御歳神社」でなく式内社「大歳神社」(石川町に鎮座)の誤りである可能性がある点に注意が必要です。

田口なる地名は現在は消滅していますが、『日本書紀』敏達天皇十四年(585年)二月十五日の条に蘇我馬子が大野丘の北に塔を建てたことが記されており、この塔が当地付近の和田町~明日香村豊浦あたりにあったと考えられていることから、大野陸にあったという当該神社もこの辺りにあったと考えられます。

当該神社が式内社「御歳神社」にせよ式内社「大歳神社」にせよ、現在の論社(もしくはその旧地)は大野丘(陸)だったであろう地に近いため、式内社であっても不思議ではないと言えましょう。

また和田町の北に隣接する「田中」は「田口」に対する地名であるとする説もあります。

 

これに対して江戸時代中期の地誌『大和志』は国史現在社「馬立伊勢部田中神社」を当社に比定しています。

当社は和田と田中の境界に位置することから、恐らく田中の地名を根拠にしたものでしょう。

伝承では当社は和田町の南東端にある「古宮土壇」と呼ばれる田圃の中の塚状の地に鎮座していたものの、慶長年間に洪水により流されたため現在地に遷座したとも伝えられています。

「古宮」とは当社の旧地を示すものとする一方、古宮土壇は推古天皇の皇居である小墾田宮の跡であるとする伝承があり、これに因むものとする説もあります。当社の案内板は後者の説を採り、当社と無関係ではないかとしています。

ただ小墾田宮は発掘調査により雷丘の南方にあったとする説が有力で、対する古宮土壇が当社の旧地であった可能性は十分あり得るでしょう。

ただしその場合、田中町から離れることになるため国史現在社「馬立伊勢部田中神社」が当社であるとする根拠が揺らぐことになります。案内板がこの伝承に否定的なのはそのためかもしれません。

 

現在の当社の御祭神は「天児屋根命」「豊受姫命」「誉田別命」の三柱です。『大和志』には当時は「八幡」と称したことが記されており、当時の主祭神は「誉田別命」だったことでしょう。

江戸時代から国史現在社「馬立伊勢部田中神社」とされた当社が式内社「御歳神社」の論社とされた経緯は全く不明です。

恐らくかなり新しい時代に主張されたものと思われますが、推測するなら御歳神に通じる穀物神「豊受姫命」を祀ることに加え、『五郡神社記』に見える「田口村大野陸」を当地あるいは「古宮土壇」としたものでしょうか。

 

当社が国史現在社「馬立伊勢部田中神社」であるか式内社「御歳神社」であるかはっきりせず、或いは洪水による遷座の際に後者が前者に合祀された可能性も考えられるかもしれません。

いずれにせよ飛鳥時代の皇居のあった飛鳥地域に程近い場所であり、古い歴史のある神社であってもおかしくないでしょう。

 

境内の様子

馬立伊勢部田中神社

馬立伊勢部田中神社

当社は和田町と田中町の境界、田中町の集落のすぐ南方に鎮座しています。

入口は境内の西側にあり、西向きの鳥居が建っています。

 

鳥居をくぐった様子。境内は砂利が敷かれ、社叢は針葉樹の多い森となっています。

 

参道を進むと右側(南側)に手水鉢が配置されています。

 

馬立伊勢部田中神社

鳥居からまっすぐ進むと正面奥に社殿が西向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺の平入切妻造に妻入切妻屋根の庇の付いたもの。

 

馬立伊勢部田中神社

拝殿後方、玉垣に囲まれた区画に銅板葺の一間社流造の本殿が建っています。

一間社とはいえ扉は三つあり、中央に「八幡宮」、左に「豊受姫社」、右に「春日社」を祀っています。(案内板には「三間社流造り」とあるが厳密には構造的に一間社である)

本殿前には鳥居も建っています。

 

当社境内を南西側から見た様子。やはり全体的に針葉樹の多い境内となっています。

 

当社の東南東630mほどの田圃の中に「古宮土壇」と呼ばれる木の一本だけ生えた塚状の土盛りがあります。

慶長年間に洪水で流されるまで当社が鎮座していた地であるとも、また推古天皇の皇居である小墾田宮の跡であるとも伝えられています。

 

タマヨリ姫
国史現在社って『延喜式』に載ってないけど国史には載ってる神社のことだよね。でもここは式内社なのに国史現在社…?
江戸時代からここは国史現在社「馬立伊勢部田中神社」とされていたのよ。でも近年になって式内社「御歳神社」ではないかって説が出てきたみたいね。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板

馬立伊勢部田中神社

+ 開く

橿原市大字和田字大坪第四十番地

神格

村社

祭神

天兒屋根命
豊受姫命
譽田別命

木造

当社、創立の詳細は分からないが、三代実録に神位の奉授のこととある。「清和天皇貞観九年正月二十五日大和国正六位上、馬立伊勢部田中神從五位下」とある。

されど延喜の領幣に漏れたるを見れば、当時社運暫く不振の状況におちいったことが察せられる。

又、位置は現今大字和田にあれども社名は馬立伊勢部田中神社と称している。昔から和田方の所伝によれば、当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと然るに古宮の地は、古代豊浦小墾田宮の故地にして名称の起こりも故地の名に因んだのであろうから、元より当社とは関係はなかったであろう。

その他古宮付近に豊浦寺時代の礎石の存せるを当社華表の阯なりと言うのも是亦附会したものと言わざるを得ない。

社殿の構造は三間社流造りにて、中央は八幡宮、左豊受姫社、右は春日社を奉祀せり。

後世時代の流れに従って春日社並びに八幡社と配祀し、後、八幡宮が却って本社の地住を占め八幡宮と称するに至った。

徳川中世に至っても尚八幡宮と称し、(石灯籠)明治四十一年年十月二日にも村社八幡神社として指定された。

その後国史見在社の古名に復すべく出願し、大正八年十一月に前指定を取り消して馬立伊勢部田中神社として指定された。

 

地図

奈良県橿原市和田町

 

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