社号 | 波多神社 |
読み | はた |
通称 | |
旧呼称 | 気多祠 等 |
鎮座地 | 奈良県高市郡明日香村冬野 |
旧国郡 | 大和国高市郡冬野村 |
御祭神 | 事代主命 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 9月14日 |
波多神社の概要
奈良県高市郡明日香村冬野に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「波多神社」について次のように記しています。
- 波多郷波多村平森にある。
- 祝部波多連の伝説によれば、当社は波多氏の祖神を祀る。
- その神号は不明。
- 『新撰姓氏録』に「波多門部造」は神魂命の後裔であるという。
平森なる地名は現在は確認できませんが、西方に隣接する畑地区などを含め古くは「波多村」と呼んだことが推測されます。
また『倭名類聚抄』大和国高市郡に「波多郷」が記されており、当地付近を範囲としたことが考えられます。
ただ、当地付近は標高が高く山深い尾根にあたり、水が得にくく農耕に不向きな地で、何故このような地に集落があるのか不思議な地となっています。
とはいえ当地には亀山天皇の皇子である良助法親王の墓があるなど、少なくとも中世初めには人が暮らしていたようです。
『新撰姓氏録』右京神別に神魂命の十三世孫、意富支閇連公の後裔であるという「波多門部造」が登載されており、『五郡神社記』はこの氏族が祖を祀ったのが当社であるとしています。
各地のハタを名乗る神社に言えることですが、ハタを名乗る氏族は渡来系の秦氏を始め数多くの系統があるため、ハタ氏が祖神を祀ったとしてもどのハタ氏であるかを確定するのは困難です。
『五郡神社記』の言うように波多門部氏が祖神を祀ったのが当社なら、本来の御祭神は「神魂命」もしくはその子孫だったことでしょう。
また『新撰姓氏録』大和国未定雑姓に高弥牟須比命の孫、治身の後裔であるという「波多祝」が登載されており、その出自から波多門部氏と同族と思われ、大和国に居住する祝部(神官)としてこの氏族が当社を奉斎したことも考えられます。
さらに『新撰姓氏録』大和国神別に牟須比命の子、安牟須比命の後裔であるという「門部連」が登載されており、この氏族もまた波多門部氏に連なる可能性があります。
門部氏は宮中の警衛を職掌とする人々で、曽爾村今井に鎮座する「門僕神社」を奉斎したとする説があります。
「門僕神社」は大和国の東の境界の地であるのに対し、当社は飛鳥時代に皇居のあった高市郡の東の境界と言える地に立地しており、邪推するなら両社は境界の地で警衛する、もしくはより呪術的な意味で災厄などを防ぐ目的で門部が配備され、その祖神を祀る神社として創建されたのかもしれません。
一方、大同三年(808年)に成立した日本最古の医学書とされる『大同類聚方』には当社の伝える薬として「志路木薬(シロキクスリ)」が登載されています。喉の痛みに対し用いると効能があったようです。
宇陀市榛原荷阪に鎮座する「味坂比賣命神社」などと同様、薬草を栽培・採集するために山間の地に人が定住していたのかもしれません。
当社は中世以降は「多武峯妙楽寺」(現在の「談山神社」)の影響を受け、その裏鬼門に位置することからその守護神として祀られたとも伝えられ、また多武峯妙楽寺の砦の一つ「冬野城」の守護神であったとも伝えられています。
当地は集落形成に不利な当地ながら、中世以降はこのように多武峰の防衛拠点として重要な地でもあったようです。
現在の当社は「事代主命」を祀っており、いずれのハタ氏とも繋がらない神が祀られていることになります。
山奥のひっそりとした小さな集落の奥にあり、今にも忘れられそうな神社となっています。
境内の様子
当社は冬野地区の集落の東方、畑沿いの道を上って行った小高いところに鎮座しています。
道を進むと針葉樹の繁った森の中に当社の鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐってすぐ正面奥の基壇上、瑞垣の奥に本殿が建っています。
拝殿などの設備は無く、必要最小限だけの設備に留めたかなり小さな神社となっています。
基壇の前に木造の灯籠があるものの老朽化のためか損壊しており、左側のものは無残に折れてしまっています。
瑞垣中央の中門の奥に建つ銅板葺・一間社春日造の本殿。比較的新しい建築のようです。
左側に石塔の相輪が置かれているのが見えます。
本殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
当社社殿の左側(北側)はやや広い空間となっており、こちらには仏教関係の施設が建っています。
この空間の右側(東側)には石造の地蔵菩薩を安置するお堂があります。
この空間の最奥部(北側)には桟瓦葺・平入切妻造のお堂があります。
鰐口が設けられていることから仏堂であると思われるものの、寺号や本尊、宗派などは不明。
当社周辺、冬野地区の集落の様子。ほんの数件の民家があるだけの小さな集落です。
山間の尾根上というあまり集落の形成に適さない地であり、小規模とはいえこのようなところに集落があるのは不思議です。
中世には多武峯妙楽寺(現在の「談山神社」)の影響下にあり、防衛拠点として重要な地だったことが考えられます。
集落の西方には亀山天皇の皇子、良助法親王の墓「冬野墓」があります。
地図