社号 | 素盞雄神社 |
読み | すさのお |
通称 | |
旧呼称 | 牛頭天王、ごってらさん 等 |
鎮座地 | 奈良県桜井市初瀬 |
旧国郡 | 大和国式上郡初瀬村 |
御祭神 | 素盞雄命、大倉比賣命 |
社格 | |
例祭 | 7月13日 |
素盞雄神社の概要
奈良県桜井市初瀬に鎮座する神社です。
社伝によれば、天暦二年(948年)に神殿大夫武磨という人物が近隣の「與喜天満神社」を創建した際、背後の與喜山(天神山)はアマテラス降臨の山であるためその弟のスサノオを鎮めねばならないとして祀ったのが当社の創建であると伝えられています。
「與喜天満神社」およびその背後の與喜山は元伊勢「伊豆加志本宮」であるとする説があり、当社の社伝はこれに基づくものでしょう。
ただ、当社は牛頭天王を祀る祇園信仰の神社として祭祀されたため、疫病除けに験があるとして中世以降に全国的に盛んになった祇園信仰の神社として当地に牛頭天王が勧請されたのが実際のところだったのかもしれません。
当社の御祭神は「素盞雄命」と「大倉比賣命」の二柱。
「素盞雄命」は、社伝の通りならば牛頭天王から本来の祭神に戻したことになりますが、恐らく実際は明治の神仏分離により仏教的な神の牛頭天王から神道における同格の神であるスサノオへと変更したものでしょう。
「大倉比賣命」は後述の「堝倉神社」の御祭神です。
堝倉(なべくら)神社
素盞雄神社は明治四十一年(1908年)に式内社「堝倉神社」を合祀しています。
「堝倉神社」は元々は與喜天満神社と素盞雄神社の間にある「鍋倉垣内」と呼ばれる地に鎮座していたとされ、現在も與喜天満神社の境内には当社の灯籠が残されています。
伴信友の『神名帳考証』には與喜天満神社の上の山にあったと記しており、古くは與喜山(天神山)の山上にあったことを示唆しています。
素盞雄神社の社伝では当社の御祭神は「大倉比賣命」、與喜天満神社の案内板では当社の御祭神は「下照姫神」としています。
オオクラヒメなる神は御所市戸毛の「大倉姫神社」、御所市古瀬の「大倉姫神社」、吉野町南国栖の「大蔵神社」などで祀られており、一説にシタテルヒメの別名であるともされていますがそれを示す史料は無いため詳細不明です。
ナベクラの地名および社名は明治まで残っていたものの、当社の奉斎氏族も詳らかでなく、その神格も明らかでありません。
推測するならば、その立地から式内社「長谷山口神社」と同様に背後の與喜山(天神山)の神を祀っていたとも思われ、或いは與喜山に散在する岩石を磐座として祭祀していがのかもしれません。
式内社
境内の様子
当社は真言宗豊山派の寺院「豊山長谷寺」から大和川を渡った対岸、與喜山(天神山)の南西麓に鎮座しています。
境内入口には南向きの鳥居が建ち、その手前左側(西側)に手水舎が建っています。
鳥居をくぐって正面に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造に妻入切妻造の屋根が向拝状に設けられたもの。比較的新しい建築です。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製のもので腰を突き上げ頭を低くした姿勢が特徴的。
拝殿背後に玉垣に囲まれて檜皮葺・一間社春日造の本殿が建っています。
本殿は鮮やかに朱が施されており、簡素な印象の拝殿とは対照的です。
境内の南東側には境内社が西向きに鎮座。桟瓦葺の春日造に似た覆屋となっています。
案内板の記述によれば、まず明治元年(1868年)に長谷寺境内から「十二社明神」を当社境内へ遷座し、その後明治四十一年(1908年)に「堝倉神社」の末社「秋葉明神」を(十二社明神へ)合祀したもののようです。
つまり案内板の通りならば二社の神社を遷座し一ヶ所に祀っているのがこの境内社となりますが、覆屋の扁額には「秋葉神社」とのみ記されています。
拝殿前の右側(東側)には花崗岩製の石造十三重塔が建っており、鎌倉時代後期の作とされています。
相輪が欠け、笠の損傷も激しいためか特に文化財には指定されていません。
また境内の南東側には大きなイチョウの木が聳えています。
樹高約40m、周囲7m強にもなり、奈良県下では最大級のイチョウです。
こちらは奈良県指定天然記念物となっています。
案内板「天然記念物 初瀬のイチョウの巨樹」


由緒
案内板「素盞雄神社」
地図
関係する寺社等
-
與喜天満神社 (奈良県桜井市初瀬)
社号 與喜天満神社 読み よきてんまん 通称 旧呼称 鎮座地 奈良県桜井市初瀬 旧国郡 大和国式上郡初瀬村 御祭神 菅原道真 社格 式内論社、旧郷社 例祭 10月20日 式内社 大和國城上郡 長谷山口 ...
続きを見る