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與喜天満神社 (奈良県桜井市初瀬)

社号與喜天満神社
読みよきてんまん
通称
旧呼称
鎮座地奈良県桜井市初瀬
旧国郡大和国式上郡初瀬村
御祭神菅原道真
社格式内論社、旧郷社
例祭10月20日

 

與喜天満神社の概要

奈良県桜井市初瀬に鎮座する神社です。

当社の創建についてはいくつかの伝承があります。以下、二つの伝承を紹介します。

寛平年間(890年頃)、この山にある樵が與喜山で仕事をしていた際に、彼の小屋に誰かが「これを祀れ」と言って木像を投げ入れた。その頃、菅原道真公が長谷寺へ参詣に来ていたので、樵はその像は道真公の御作に違いないとして祀ることにした。その像が現在当社に伝わる木造神像である。

当地に神殿太夫武麿という高徳な人物がいた。天慶九年(946年)九月十八日、武麿は高貴な翁の夢を見た。その二日後、武麿の邸宅の前にある石の上に高貴な老人が座っていた。翁が長谷寺へ参詣に向かうと川で禊をし、十一面観音に、そして瀧蔵権現に参ると急に黒雲が立ち込めその翁を包み込んだ。すると翁は衣冠束帯の姿となり「我は菅原道真である。この良き山に神となって鎮座しよう」と武麿に語り、その通り神となって鎮まったのが当社の始めである。

上記二つの伝承を見ても近隣にある真言宗豊山派の寺院「豊山長谷寺」と非常に深い関わりを持って創建されたことが窺えます。

長谷寺に伝わる文書『長谷寺縁起文』は菅原道真が執筆した体裁を取っており、実際には平安末期~鎌倉初期の頃に菅原道真に仮託して書かれたものであろうと考えられていますが、それでもかなり古くからかなり古くから菅原道真と関係があったことがわかります。

長谷寺が菅原道真と関係があったから当社が創建されたのか、それとも当社が創建された後に長谷寺と深く関わるようになったのかは不明ですが、いずれにしても当社は長谷寺の鎮守社として各地から大いに信仰を集め、また初瀬地区の産土神として近隣の住民に信仰されました。

 

当地の神域としての歴史は伝承上では上記の通り平安時代中期頃以降となっていますが、それ以前から当地は神域であったとする説もあり、式内社「長谷山口神社」は当地に鎮座していたとする説がある他、元伊勢「伊豆加志本宮」は当地であるとする説もあります。

式内社「長谷山口神社」は背後の「與喜山(天神山)」を水源の地、木材供給の地とし、その守護神として祀られたものと考えられ、古くは宮殿などの用材のために樹木が伐り出されたものと思われます。上記の樵の伝承はこれを反映しているのかもしれません。

しかしその後の寺社の情勢の変化などにより與喜山が長谷寺の寺領となって伐採が禁じられた結果、現在は貴重な暖地性の植生の見られる極相林となっており、「与喜山暖帯林」として国指定天然記念物に指定されています。

少なくとも現在の與喜天満神社は天神信仰の神社であり特に山の神として信仰されているわけでありませんが、與喜山が禁足地となったことから結果的にはこうした山々の守護神として山の神を内包していると言えるのかもしれません。

当社境内や與喜山の山中には数多くの岩石があり、かつてはこれらを磐座として山の神を祭祀したことも考えられます。

 

一方、菅原道真の祖である「野見宿禰」が当地の出身であるとする伝承も見られますが、『日本書紀』垂仁天皇七年七月七日条の当麻蹴速との相撲において野見宿禰は出雲国の勇士であると記されているように、野見宿禰は出雲国の人物です。

初瀬地区の西隣に出雲地区(旧・出雲村)があることからこれを野見宿禰と結びつけたものと思われ、牽強付会であると言うべきでしょう。

 

当社は多くの文化財を伝えており、「怒り天神」とも呼ばれる厳めしい表情の「木造天神坐像」は正元元年(1259年)の銘があり、現存最古の天神像で、国指定重要文化財となっています。

また現在長谷寺が所蔵する国指定重要文化財の甲冑五点も元々は当社に伝えられていたもので、廊坊宗賢が松永久秀との戦の恩賞に北畠教謙から鎧を与えられたのを当社へ奉納したものとされています。

 

境内の様子

当社は與喜山(天神山)の南西麓の中腹、長谷寺への参道をまっすぐ延長したところに鎮座しています(長谷寺へは途中で参道を左へ曲がる)。

大和川を渡り、石段を上って進んだ先に当社の鳥居が南西向きに建っています。鳥居は朱塗りで、後方にのみ両部鳥居の稚児柱が設けられています。

 

鳥居をくぐると長い石段が続きます。

與喜山は暖帯林、すなわち照葉樹林となっている一方で、当社参道は杉の巨木が多く見られます。

 

石段途中のやや平坦になっているところの右側(東側)に岩石があり、川の向こうに鎮座する「八王子社」と背後の山神を参拝するための磐座であるとされています。

当社が山の神を祀る式内社「長谷山口神社」だったとすれば、この岩石がその信仰を継承していると言えるかもしれません。

八王子社の社殿はトタン葺の春日見世棚造。

案内板「八王子社と山神遥拝所のご由緒」

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與喜天満神社・摂社

八王子社と山神遥拝所のご由緒

川向こうの岩盤の上に鎮座する八王子社は、天照大神と素戔嗚尊との誓託によって、お生まれになった八柱の神を祭る神社です。

またこの磐座は、八王子社と当山の山神を参拝する場所です。神社は、長谷寺の鎮守・地主の神様です。長谷寺に参詣された方は、当神社へもお参り下さい。-神社へ登られない方は、ここからご参拝下さい。

與喜天満神社は、わが国最古の天満宮(ご祭神・菅原道真公)で、「吉のお宮」とも言われています。またこの神山に、初めて天上から天照大神が降臨された聖地としても知られています。

(八王子社のご神徳)

○家内安全
○家族反映
○女性守護
○諸願成就
など

 

さらに石段を上って行くと突き当りに城郭を思わせる巨大な石垣が聳えており、石段は左(北西側)へ曲がります。

 

右側(北東側)の石垣の中央に石段が設けられ、その上に銅板葺・平唐門の中門が建ち、左右に瑞垣が伸びています。

その奥に当社の本殿および境内社群が南西向きに並んでいます。なお、当社に拝殿はありません。

 

中門のすぐ奥に、檜皮葺・平入入母屋造に軒唐破風付きの向拝、及び千鳥破風の付いた本殿が建っています。

屋根も豪奢な印象ですが、身舎も複雑な彫刻が施されており、組物も多く、彩色は無いもののかなりゴテゴテとした印象。

桜井市指定有形文化財となっています。

 

本社本殿の左側(北西側)に二社の境内社が鎮座しています。左側は「桜葉社」、右側は「白太夫社」。

いずれも銅板葺の一間社流造です。

 

本社本殿の右側(南東側)には三社の境内社が鎮座しています。

左側は「速玉命社」、中央は「伊弉諾命社」、右側は「伊弉冉命社」。

社殿はいずれも銅板葺の一間社春日造。

 

石垣下の左側(北西側)に岩石があり、注連縄で囲まれています。これは「鵝形(がぎょう)石」と呼ばれる磐座で、「天照大神」を「斎神」としています。

案内板「磐座「鵝形石」(ご斎神・天照大神)ご由緒」

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伊勢神宮信仰の原点

磐座「鵝形石」(ご斎神・天照大神)ご由緒

菅原道真公を祭る與喜天満神社は、平安時代に創建され、当山の鎮守・地主の神様ですが、古代、この地は天照大神が天上からはじめてこの世に降臨された聖地と伝えられています。

そもそもこの與喜山は、古代は大泊山と呼ばれ、大和に国に最初に太陽の昇ってくる聖なる山でありました。伊勢神宮の信仰は、この初瀬の地が地理的にも出発点なのです。

天武天皇は六七三年四月、伊勢に出発する斎王・大来皇子の潔斎のための施設をもうけました。これが『日本書紀』に記された「泊瀬斎宮」です。この斎宮も與喜山にあったと考えられています。

原初より女性は太陽であり、神として敬われます。女性の皆様の守護神として心をこめてご参拝下さい。

(ご神徳)

○入試合格・学業成就
○大吉福運将来
○女性守護
○えんむすび良縁
などご祈願下さい。

 

そして石垣の左端(北西端)に二つの岩石があります。これらは右上のものを「掌(たなごころ)石」、左下のものを「沓形石」と呼ぶ磐座で、それぞれ「斎神」を「太玉命」「天児屋根命」としています。

元々ここにあった自然石と思われますが掌石は石垣の一部ともなっています。

磐座・「掌石」と「沓形石」のご由緒

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磐座・「掌石」と「沓形石」のご由緒

古代は聖なる山に鎮座する磐座に、神を迎えてお祭りをしました。-当社の磐座は、その形態を現在も残す、貴重な信仰上の遺産でもあります。私たちはこの磐座に祈りを捧げ、古代さながらの神体験ができるのです。

右上段の磐座・「掌石」(斎神・太玉命)は、手のひらのような形をしているのでその名が付きました。また左下段の「沓形石」(斎神・天児屋根命)は、神官がはく沓のような形をしているので、その名が付きました。

手前の鵝形石(斎神・天照大神)は鵞鳥のような形をしているので、その名が付きました。この三つの磐座で、『古事記』神話に記されている「天の岩戸」の段を再現していると考えられています。-

■どうぞ、古代から息づく神の霊気をいただいて、諸願の成就をご祈願下さい。

 

境内の北西側に二基の石灯籠が建っており、これは式内社の「鍋倉神社(堝倉神社)」に奉納されたものとされています。

堝倉神社は元々は「鍋倉垣内」と呼ばれる地に鎮座していましたが、明治四十一年(1908年)に西方に鎮座する「素盞雄神社」に合祀されました。

案内板「延喜式・式内社「鍋倉神社」のご由緒」

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延喜式・式内社「鍋倉神社」のご由緒

この二基の石灯籍は、鍋倉神社(ご祭神・下照姫)に捧げられたもので、與喜山中に座す磐座を遙拝する場所です。

鍋倉神社は『延喜式』(延長五年〈九二七〉成立)の「神名帳」に所載する古社で、伴信友の『神名帳考証』に、

初瀬ノ與喜天神ノ上ノ山ニアリ、今モ鍋倉明神ト云フ

とあり、当山に平安時代、天神信仰が生まれ、天満宮が建立される以前は、古代の神として、この霊山に祭られた女性神がいらしたのです。

下照姫は『古事記』に、大国主命の娘として現れるお方で、美しさは地上を照らすほどだったので、その名が付けられたようです。-当山は、はじめて天上から天照大神が降臨されたという伝承を持ち、女性の神々にゆかりある聖地でもあります。

(ご神徳)

○女性の守護
○えんむすび
など

 

鍋倉神社灯籠のさらに奥側(北西側)に広い空間があり、明治以前はこの場所に連歌会所の「菅明院」がありました。

当社で行われる連歌会は中世には全国的に知られていたようです。

案内板「連歌会所・菅明院のご由緒」

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連歌会所・菅明院のご由緒

明治維新以前は、この地に連歌会所・菅明院が建っていました(礎石が残る)。-連歌は短歌の上句(五・七・七)(※原文ママ。正しくは五・七・五)と、下句(七・七)を交互に詠み連ねる文芸で、貴族から庶民にいたるまで盛んに行われました。特に当、與喜天満神社の連歌は、「天神講連歌会」と呼ばれ、中世には全国的に知られ、文学史に記録されるものでした。

連歌のバイブルともいえる選集『竹林抄』(宗祇篇・文明八年(一四七六)成立)には、「初瀬にますは與喜の神垣」という当社を詠んだ句が所収されているほどです。-

また、長谷寺の仁王門から初瀬川へ下ったところには、朱塗りの「連歌橋」が架かっています。この橋は当社への裏参道でもあり、連歌を行う人々が渡ったためその名が付きました。-近年、この貴重な文化遺産である”菅明院の再建”を、という声が上がっています。

 

道を戻ります。当社参道の石段の途中、左側(北西側)にちょっとした空間があり、これは「與喜寺」の跡と伝えられています。

詳細不明ですが、長谷寺の鎮守社である当社には、長谷寺とはまた別に神宮寺が存在していたのでしょうか。或いは塔頭寺院の一つだったのかもしれません。

 

さらに道を戻り、石段下にある当社の社務所の前には「男女(めおと)岩」なる二つの岩石があります。

これは上記磐座とは異なり、恐らく古くからこの地にあったものではないでしょう。

 

豊山長谷寺

当社の西方400mほどの地に真言宗豊山派の寺院「豊山長谷寺」があります。当社はこの長谷寺の鎮守社とされ、非常に深い関係にありました。

当記事では詳細は割愛しますが、長谷寺は西国三十三所第八番札所として非常に有名で、当寺の本尊の「木造十一面観音立像」は十一面観音でありながら地蔵のように錫杖を持つことで知られており「長谷寺式十一面観音」と称されています。

本堂は徳川家光の寄進により慶安三年(1650年)に竣工したもので、本尊を安置する正堂と参拝者のための礼堂の前後に分かれているのが特徴。非常に大規模な近世の建築として貴重なもので、国宝に指定されています。

その他当寺には国宝の「銅板法華説相図」や「長谷寺経」と呼ばれる経文類はじめ多数の文化財を伝えており、古今東西貴賤を問わず非常に多くの人々から信仰されている寺院です。

 

タマヨリ姫
ここは古くから長谷寺と関係が深かったんだね!
そうね。長谷寺の鎮守社として共に歴史を歩んできたことと思うわ。
トヨタマ姫

 

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奈良県桜井市初瀬

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