社号 | 狭岡神社 |
読み | さおか |
通称 | |
旧呼称 | 佐保丘天神 等 |
鎮座地 | 奈良県奈良市法蓮町 |
旧国郡 | 大和国添上郡法蓮村 |
御祭神 | 若山咋之神、若年之神、若沙那比売神、弥豆麻岐之神、夏高津日之神、秋比売之神、久久年之神、久久紀若室葛根之神 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月9日 |
狭岡神社の概要
奈良県奈良市法蓮町に鎮座する式内社です。
社伝によれば、霊亀二年(715年)に藤原不比等が国家鎮護と藤原氏の守護のため勅許により佐保殿の丘上に天神八座を祀ったのが当社だとしています。
佐保殿とは奈良の北方の郊外にあったとされる藤原氏の邸宅であり、平安時代以降も藤原氏が興福寺や春日大社へ参詣する際には宿舎としたり、藤原氏の奈良における出先機関として活用したりするなど、藤原氏にとって重要な施設でした。
佐保殿は当地付近にあったと推定されていますが具体的な場所ははっきりせず、当社の地が佐保殿だったとする確証はありません。
当社の御祭神「若山咋之神」「若年之神」「若沙那比売神」「弥豆麻岐之神」「夏高津日之神」「秋比売之神」「久久年之神」「久久紀若室葛根之神」の八柱はいずれも『古事記』に大年神の御子として登場する神々で、神社で祀られるのはやや珍しい例です。
社伝では国家鎮護と共に藤原氏の守護のために祀ったとありますが、藤原氏と特に関係の無い大年神の御子神を守護神として祀るのはやや不審であり、国津神であるのに「天神」として祀っているのもよくわかりません。
近世以前に当社を「天神」と称していたのは確かなようで、土地の人々は天神を菅原道真公のことと認識していたようです。
式内社「狭岡神社」が当社に比定されたのは、「狭岡」を「佐保岡」の転訛したものとし、奈良北方の「佐保」と呼ばれる一帯の鎮守的な存在である当社が選ばれたもので、根拠としては弱いと言わざるを得ません。
しかし平城京の一条通から参道が伸び、佐保山の麓に鎮座する当社は古社の立地として申し分なく、歴史を感じさせるものです。
式内社であるかはともかく、周囲の不退寺や佐紀盾列古墳群と共に、奈良北方の「佐保」における歴史的な景観を構成するものと言えましょう。
また当社境内には狭穂姫が姿を写したと伝えられる「鏡池」があります。
狭穂姫とは垂仁天皇の皇后です。記紀によれば、狭穂姫は兄の狭穂彦の反乱に際して天皇と兄のどちらに与するか苦悩しつつも兄に従うことを決め、天皇に攻められて炎に包まれる中で天皇との間で最後の問答を交わしたことが記され、記紀の中でもとりわけ人間の激情に溢れた物語として高く評価されています。
狭穂姫・狭穂彦の兄妹はその名から当地を拠点としたことが考えられます。
ただし狭穂姫の伝承は当社の由緒と全くの無関係です。境内に他に狭穂姫との関係を示すものがあるわけでないため、当社の信仰に関わるものでなく、恐らく後世の付会で語られ始めたものでしょう。
境内の様子
当社は佐保山の南麓に鎮座しており、入口には二基の鳥居が南向きに建っています。
一の鳥居は石造の明神鳥居。そのすぐ後方に建つ二の鳥居は朱塗りの鳥居で、後方にだけ両部鳥居のような稚児柱のあるものとなっています。
二の鳥居の後方、参道の右側(東側)に手水舎があります。
鳥居をくぐった様子。山の麓に鎮座するだけあって参道は石段が続いており、社叢は鬱蒼としています。
石段を上っていくと突き当りで左(西側)へ直角に曲がります。
そこからさらに上っていくと社殿の建ち並ぶ空間に出ます。社殿は南向きで、石段を上がったところは社殿の横となっています。
当社には二棟の拝殿が建っています。
本殿前に建っているのは桟瓦葺・平入入母屋造の舞殿風拝殿。当地は京都府(旧・山城国)との境界に近いため京都に多い舞殿風拝殿で建てられたのでしょう。
一方、舞殿風拝殿の手前側(南側)にもう一つの拝殿が建ています。桟瓦葺・平入切妻造で千鳥破風の付いたもの。
桁行五間で中央の三間には壁が無く、一見割拝殿のようにも見えます。が、後方(南側)の先は崖となっており、敷地の隅に拝殿が建っていることになります。
一般に拝殿は敷地の中央に建つことが多く参拝の中心的な建物として機能しますが、奈良県ではしばしばこのように敷地の隅に拝殿が建つ例が見られます。
こうした拝殿は参拝の為の施設というよりも、神事を執り行うための施設といった要素が大きいと思われます。
拝殿後方に朱鳥居が建ち、瑞垣で本殿を囲っています。
本殿は銅板葺で朱の施された一間社春日造。
わかりにくいですが本殿の左右には銅板葺・春日見世棚造の小さな境内社が一社ずつ鎮座しています。向かって右側は「四所神社(天満神社)」、左側は「惣社殿(金山神社)」です。
拝殿と本殿(を囲う瑞垣)の間に狛犬が配置されています。砂岩製でしょうか。
道を戻ります。参道の石段途中の左側(西側)に「鏡池」と呼ばれる丸い池があります。
概要にも記したように、垂仁天皇の皇后である狭穂姫が姿を写した池だと言われています。
現在はかなり濁った池となっており、あまり綺麗に写せなさそうな池となっています。
案内板
狭穂姫伝承の鏡池(姿見池)
さらにその脇に「狭穂姫伝承地」と刻まれた石碑が建っています。
しかし当社の信仰は狭穂姫と何ら関わりが無く、他にも何ら狭穂姫との関係を示すものも無いため、古くから狭穂姫の伝承地とされていたのかは不明です。
案内板
狭穂姫伝承地
由緒
案内板
地図