社号 | 奈良豆比古神社 |
読み | ならつひこ |
通称 | |
旧呼称 | 奈良坂春日社 等 |
鎮座地 | 奈良県奈良市奈良阪町 |
旧国郡 | 大和国添上郡奈良坂村 |
御祭神 | 平城津比古大神、春日宮天皇、春日王 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月9日 |
奈良豆比古神社の概要
奈良県奈良市奈良阪町に鎮座する式内社です。
社伝によれば、光仁天皇の父である施基皇子(志貴皇子)が病気の療養のため「奈良山春日離宮」として当地に居住し、薨去後の宝亀二年(771年)に施基皇子を祀ったのが当社であるとしています。
施基皇子は天智天皇の御子で、持統天皇や元明天皇、弘文天皇(大友皇子)らの弟にあたる人物です。
壬申の乱の後、天智系の皇統に代わって天武系の皇統が主流になり、天智天皇の御子である施基皇子は争いを避けるため皇位には一切関わらず、和歌など文化人としての人生に専念しました。
しかし薨去から50年以上を経て施基皇子の御子である白壁王が即位して光仁天皇となったため、施基皇子は春日宮御宇天皇の追号を受けました。
以降この皇統は途絶えることなく続き、現在の皇室は施基皇子の子孫となっています。
社伝ではこの人物を祀ったのが当社であるとし、奈良豆比古とは施基皇子のことであるとしていますが、現在の御祭神は「平城津比古大神」「春日宮天皇」「春日王」となっており、奈良豆比古(平城津比古大神)と施基皇子(春日宮天皇)は別々の神として祀られています。
ここでの平城津比古大神とは当地の産土神であるとしているようです。ただし当社の御祭神は変遷があったようで、『大和志料』では平城津比古大神でなく春日若宮を祀るとしています。
『大和志料』にはかつて当社が「春日社」と呼ばれていたものの奈良の春日大社とは無縁である旨を記していますが、春日大社の摂社である春日若宮を祀ると信じられていたことから全くの無縁と言い切れるものではなさそうです。
御祭神の一柱に祀られる春日王とは施基皇子の御子の一人であり実在の人物です。しかし当地では半ば伝説的な人物として語られており、重いハンセン病に罹っていたため平城山の奥に隠棲し、後に御子を産んで浄人王と名付けたと伝えられています。
国史ではそのような記述は一切存在せず、浄人王なる人物の名も見えません。ただ、当地の人々はこの浄人王を祖と仰ぎ、一種の祖神的な存在として信仰していたようです。
当地は奈良県(大和国)と京都府(山城国)の国境で、坂にあたる地でもあり、異境から神や霊などが侵入すると見做されたまさしく「境界」の地です。
このような地は一般社会から疎外され排斥された人々の集まる地であり、そのような人々の中にはハンセン病のような重い病を持った人々もいたことでしょう。
事実、当地の近くにハンセン病などの患者を救済する福祉施設である「北山十八間戸」が鎌倉時代に作られています。
このような被差別的な人々がこの境界の地に集まり集落を形成し、人々の結託の象徴として、また苦しい立場にあった彼らの精神的な拠所として、実在の人物に仮託して創出したのが上述の春日王の伝説だったのでしょう。
一方でこのような境界の地に祀られる神は往々にして災厄をもたらす悪霊や疫病神などの侵入を遮る役目があるもので、当社の神も本来はそのような神格で祀られたのかもしれません。
また当社には「翁舞」と呼ばれる古い舞が伝承されており、国指定重要無形民俗文化財となっています。
社伝では春日王の病気の平癒を祈願して御子の浄人王が舞を奉納したことに始まると伝えられています。
流石に春日王の在世した奈良時代にまで遡るものとは考えられませんが、当社に伝えられている二十五面もの能面の中には応永二十年(1413年)の刻銘のあるものもあり、少なくとも中世の古い舞を伝えていると考えられ極めて貴重です。
当地のような境界の地では芸能に携わった人々も古くから居住していたと思われ、彼らが脈々と現在まで伝えてきたものでしょう。
当地はまさに「辺境の地」ですが、こういう場所にこそ古く貴重なものがよく残っているのは誠に興味深いところです。
境内の様子
境内入口。京都府との境界近く、奈良阪の集落の北方に位置しており、奈良街道の旧道に面して東向きに一の鳥居が建っています。
両脇の灯籠にはかつての呼称である「春日社」と刻まれています。
一の鳥居の両脇に配置されている狛犬。石材はよくわかりません。体が完全に横向きなのに顔は真正面を向いており珍しい姿です。
一の鳥居をくぐって左側(北側)に手水舎があります。
一の鳥居からは石畳の参道が続き、やや左方に折れ曲がります。
その先に二の鳥居が東向きに建っています。
二の鳥居の両脇に配置されている狛犬。こちらは砂岩製でキリっとした表情が印象的。
二の鳥居をくぐると正面に東向きに社殿が並んでいます。
手前側の拝殿は桟瓦葺の平入切妻造で、通路の上が段違い屋根となっている割拝殿です。段違い屋根の割拝殿は奈良県ではしばしば見られるものです。
この割拝殿は後方の社殿群の建つ空間を完全に区画しており、神門としての機能も備えているように思われます。
当社は室町時代以来の舞と考えられる「翁舞」が伝えられており、国指定重要無形民俗文化財となっています。
割拝殿の屋根裏にもこれに因み翁舞を描いた絵馬が奉納されています。
割拝殿の通路を抜けると妻入切妻造の屋根の付いた廊下が伸び、その先にもう一つの拝殿が建っています。
こちらの拝殿は桟瓦葺・妻入切妻造で梁行一間、奥行二間の舞殿風拝殿です。舞殿風拝殿は京都府に多く、京都府との境界に近い当地でもその影響を受けていることが考えられますが、当社で伝えられている翁舞もこの拝殿で行われており、実質的に舞殿としても機能しています。
舞殿風拝殿の後方、石垣の上に朱鳥居が建ち、左右に瑞垣を設け、その奥に本殿が建っています。
石段へ上ることを禁じる旨の注意書きがあるためよく見えませんが、銅板葺で朱塗りの一間社春日造の本殿が三棟並んでいます。
中殿に「平城津比古大神」、左殿に「春日宮天皇」、右殿に「春日王」を祀っています。
本殿前の石段下に配置されている狛犬。砂岩製の小さなもので、表情も愛らしいものです。
石垣の前にはこのような岩石が安置されており、注連縄が掛けられて祭祀されているようです。詳細不明。
道を戻ります。割拝殿の手前側、二の鳥居の右側(北側)に「恵比須社」が東向きに鎮座。鳥居が建ち、社殿は銅板葺の春日見世棚造。
恵比須社の右側(北側)に「毘沙門天王社」が東向きに鎮座。鳥居が建ち、桟瓦葺の妻入切妻造のお堂の中に石造の毘沙門天像が納められています。
本社割拝殿の右側(北側)の空間にも二社の境内社が鎮座しています。
手前側には「大福社」が東向きに鎮座。鳥居が建ち、社殿は銅板葺の春日見世棚造。鳥居の扁額には「福の神」と刻まれています。
奥側に「石瓶社」が東向きに鎮座。鳥居が建ち、石畳のやや長い参道の先に塀に囲われて社殿が建っています。社殿は春日造に似たもので、銅板葺の妻入切妻造の正面に庇の付いたもの。
本社割拝殿の左側へ回り、そこから奥へ進むと巨大なクスノキが聳えています。樹齢千年とも推測され、樹高30mにもなる立派な巨樹で、奈良県指定天然記念物となっています。
案内板
天然記念物 樟の巨樹
翻って境内の東側、参道の右側(北側)の空間には大きな池があります。
この池の畔に「辨財天社」が西向きに鎮座しています。鳥居が建ち、池を左右に分けるようにして参道が伸び、その先に銅板葺・春日見世棚造の社殿が建っています。
境内の東の隅には道に面して高札場が復元されています。
高札とは明治以前に奉行所や政府が法令や人々の守るべき規範などを札に書いて掲げ広く示したもの。
多く人通りの多い場所に設けられ、当地は山城国との境界近くにあり奈良街道沿いの集落の入口でもあるため、高札場の設置に都合が良かったのでしょう。
案内板
高札場
当社の周辺、奈良阪の集落の様子。その地名が示すように坂になっていることがわかると共に、古くから京と奈良を結ぶ京街道だったこともあり古い町並みが残っています。
当社の南方900mほどのところに「北山十八間戸」と呼ばれる施設があります。
これは鎌倉時代に真言律宗の僧・忍性によって作られたハンセン病などの重病の患者を保護するための福祉施設で、現在残っている建物は元禄六年(1693年)のもの。
本瓦葺の切妻造で18室に区切られた長屋となっています。
当地は大和国と山城国の境界の地であり、古くから一般社会から疎外された人々の集まる地で、その中にはハンセン病などを患った人々も多く含まれていたと思われます。
彼らを救済するための施設として建てられたのが北山十八間戸だったのでしょう。元々は般若寺の北東にあったと伝えられています。
当社の祭神である春日王も当地ではハンセン病を患い当地で隠棲していたと伝えられており、病人の集まる境界という立地は当地における信仰にも深く影響を及ぼしています。
由緒
案内板
奈良豆比古神社 翁舞
地図