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和爾下神社 (奈良県大和郡山市横田町)

社号和爾下神社
読みわにした
通称
旧呼称下治道宮、下治道天王社 等
鎮座地奈良県大和郡山市横田町
旧国郡大和国添上郡横田村
御祭神素盞嗚命、大己貴命、櫛稲田姫命、横田物部命
社格式内社、旧村社
例祭9月13日

 

和爾下神社の概要

奈良県大和郡山市横田町に鎮座する式内社です。天理市櫟本に鎮座する「和爾下神社」と共に式内社「和爾下神社」とされています。

当地付近には古代氏族の和珥氏が居住し、彼らが近隣の和爾町の「和爾坐赤阪比古神社」などと共に祖神を祀ったのが当社だと考えられています。

和珥氏は孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命を祖とする氏族で、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣など16氏に分かれた一大氏族です。

『新撰姓氏録』にも非常に多くの和珥氏関係の氏族が登載されており、皇別氏族として天足彦国押人命の後裔であると記されています。

彼ら和珥氏が祖神を祀ったと考えられる一方、伝承では物部氏の一族である横田物部氏が当地に居住して祖神である饒速日命を祀ったとも言われています。

横田物部は記紀や新撰姓氏録などには見えないものの、『先代旧事本紀』にニギハヤヒの降臨に随伴した25部の中に見える氏族です。

近くには天理市布留に物部氏の一大拠点だった「石上神宮」が鎮座しており、物部氏の勢力が拡大して和珥氏の勢力圏だった当地にまで影響を及ぼした可能性があります。

石上神宮でも元々は和珥氏が祭祀を行っていた形跡があり、当社でも当初は和珥氏が奉斎していたものの後に物部氏が取って代わって祭祀するようになったことが考えられるかもしれません。

また、当地の開発の歴史も古く、鎌倉時代の東大寺の記録である『東大寺続要録』によれば神護景雲三年(769年)に東大寺領だった当地に水を引くため水路や溜池、横田道(当社の鳥居前を東西に伸びる道)を整備したことが記されています。

当社の旧称「治道宮」とは横田道を開発したことに因む社名なのかもしれません。

 

先述のように式内社「和爾下神社」は当社と天理市櫟本町の「和爾下神社」の二社に比定されています。これらは双方が論社を主張しているのでなく、『延喜式』に二座とあることから両社に一座ずつ祀られているとしています。

天理市櫟本町の和爾下神社は和珥氏の一族である柿本氏が奉斎したと考えられるのに対し、当社では同じく和珥氏の一族である壱比韋氏(櫟井氏)が奉斎したと考えられ、それぞれが祖神を祀ったものと思われます。

ただし、現在の御祭神は両社とも和珥氏の祖である天足彦国押人命でなく、「素盞鳴命」「大己貴命」「櫛稲田姫命」となっています。(加えて当社では「横田物部命」も配祀)

両社とも近世には「天王社」と呼ばれ牛頭天王を祀る神社として信仰されていました。明治年間の神仏分離により仏教的な牛頭天王に代わって素盞嗚尊が祀られるようになったものでしょう。

本来は和珥氏の祖神(或いは物部氏の祖神?)を祀っていたものが、氏族の氏神から集落の鎮守神へと信仰が変遷するに従い牛頭天王を祀る神社へと移り変わっていったものと思われます。

ただ、上述の通り両社で和珥氏の祖を祀っていたとすると、『延喜式』の二座は同じ神を指すことになる可能性があります。片方は天足彦国押人命として、もう片方はその御子、孫などにあたる人物か、もしくはワニ一族の統合的な神として「和爾坐赤阪比古神社」と同じ神が祀られていたかもしれません。

そしてこのことは、本来はどちらかの神社だけが鎮座し二柱を祀っていたところ後世にもう一方へ勧請した可能性も浮上してきます。

どのような経緯があったかは不明ですが、かなり古くから現在に至るまで二社が一体の信仰とされていることは間違いなさそうです。

 

境内の様子

横田町 和爾下神社

横田町 和爾下神社

境内入口。道路に面して鳥居が南向きに建っています。

鳥居は朱塗りの両部鳥居で、前後の稚児柱は石製となっています。

 

鳥居をくぐって右側(東側)に小さな手水舎があります。手水鉢には多数の盃状穴が穿たれています。

導水施設などは無く、現在は使われていないようです。

 

鳥居をくぐって左側(西側)に並ぶ灯籠。当社の旧称である「下治道社」と刻まれているものもあります。

 

横田町 和爾下神社

横田町 和爾下神社

鳥居をくぐって正面に社殿が南向きに建っています。

手前に建つ拝殿(?)は桟瓦葺・平入切妻造の割拝殿状の建物で、桁行四間となっており通路が中心からズレて右から二間目に設けられています。

 

この建物の前に配置されている狛犬。砂岩製のがっしりとした立派な作例です。

 

横田町 和爾下神社

割拝殿状の建物をくぐり抜けると正面にもう一棟の拝殿が建っています。

こちらの拝殿は桟瓦葺・妻入切妻造で、梁行一間、奥行二間の縦長の建物。奥側の一間にのみ床が設置されているのも特徴。

 

本殿は銅板葺の三間社流造で朱の施されたもの。手前側には外陣が設けられています。

 

当社の社殿の周囲には非常に多くの境内社が配置されています。写真は社殿左側(西側)の様子。

本社本殿の左側(西側)から反時計回りに紹介していきます。なお境内社は一社を除いて全て銅板葺の春日見世棚造となっています。

 

本社本殿のすぐ左側(西側)に隣接して「八幡神社」が南向きに鎮座。

 

八幡神社の左側(西側)に「住吉神社」が南向きに鎮座。

 

住吉神社の左手前(南西)に「白山神社」が鎮座。向きを変えて東向きに鎮座しています。

社殿は小さなものとなっています。

 

白山神社の左側(南側)に「厳島神社」が東向きに鎮座。

八幡神社や住吉神社と同じ規模のやや大きめの社殿。

 

厳島神社の左側(南側)に「子守神社」が東向きに鎮座。

ここからは再び小さな社殿が続きます。

 

子守神社の左側(南側)に「高龗神社」が東向きに鎮座。

 

高龗神社の左側(南側)に「貴船神社」が東向きに鎮座。

どういうわけかこの神社だけが流見世棚造となっています。隣の高龗神社と祭神も同じと思われ、やや気に掛かる存在です。

 

続いて本社社殿の右側(東側)へ。引き続き反時計回りに紹介します。

 

本社社殿の右手前側(南東側)に「春日神社」が西向きに鎮座。

 

春日神社の左側(北側)に「天照大神社」が西向きに鎮座。

以上の二社は八幡神社、住吉神社などと同規模のやや大きな社殿。

 

天照大神社の左側に「金比羅神社」が西向きに鎮座。

前二社と比べるとやや小さな社殿となっています。

 

金比羅神社の左側(北側)、本社社殿のすぐ右側(東側)に隣接して「春日若宮神社」が鎮座。向きを変えて南向きとなっています。

八幡神社、住吉神社などと同規模のやや大きな社殿です。

このように本社社殿を囲むようにして境内社が多数配置されています。

 

当社周辺の様子。鳥居前を東西に伸びる道路は奈良時代に整備された「横田道」で非常に古い道路です。

横田の集落は水路で廻らされた環濠集落となっており、中世以来の雰囲気の残る一帯となっています。

 

タマ姫
和爾下神社って二つあるんだね!どっちが式内社だったのかな?
『延喜式』には二座とあるから、諸説あるものの両方を併せて式内社と考えられてるみたいね。
トヨ姫

 

由緒

案内板

延喜式内 郷社 和爾下神社

 

地図

奈良県大和郡山市横田町

 

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