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石上神宮 (奈良県天理市布留町)

社号石上神宮
読みいそのかみ
通称
旧呼称布留社 等
鎮座地奈良県天理市布留町
旧国郡大和国山辺郡布留村
御祭神布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神
社格式内社、二十二社、旧官幣大社
例祭10月15日

 

石上神宮の概要

奈良県天理市布留町に鎮座する式内社です。古代の有力な氏族である物部氏の氏神として知られています。

『延喜式』神名帳には名神大社に列せられると共に二十二社の中八社にも列せられ、古くから非常に有力な神社でした。

当社は「布都御魂(ふつのみたま)大神」「布留御魂(ふるのみたま)大神」「布都斯魂(ふつしみたま)大神」を主祭神とし、「五十瓊敷命」「宇摩志麻治命」「白河天皇」「市川臣命」を配祀しています。

主祭神の三柱はいずれも剣や神宝の神霊です。

「布都御魂大神」とは神武天皇東征においてタケミカヅチが帯びていた神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿る神霊で、夢告によってタカクラジが倉の中から見つけイワレヒコ(後の神武天皇)に献上し大和平定を成し遂げた剣です。

「布留御魂大神」とは物部氏の祖であるニギハヤヒが天降る際に天津神から授けられた神宝「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」に宿る神霊で、亡くなった人物を蘇らせることもできるという呪具です。

「布都斯魂大神」とはスサノオがヤマタノオロチを退治する際に用いた「天十握剣」に宿る神霊です。

『延喜式』神名帳には「石上坐布都御魂神社」とあり一座が祀られていたことから、本来は布都御魂大神のみが祀られていたことが推測されます。

 

神剣「布都御魂(韴霊)」の謂れについては記紀に記されており、『古事記』には次のようにあります。

『古事記』(大意)

イワレヒコ(後の神武天皇)が熊野に至った時、大きな熊が現れてイワレヒコや兵士はみな気を失ってしまった。このとき、タカクラジという者が一口の太刀を持って献上するとイワレヒコは正気を取り戻し、熊野の荒ぶる神は自然と切り倒され、倒れていた兵士も皆起き上がった。

イワレヒコがこの太刀のことを問うと、タカクラジは次のように言った。「夢にアマテラスと高木神の二柱の神が話し合い、葦原中国の平定に苦労しているようなのでタケミカヅチを派遣しようとしたところ、タケミカヅチは『私が行かなくてもその国を平定した太刀を降せば良い』と言った。」この太刀は佐士布都(さじふつ)神といい、また甕布都(みかふつ)神といい、また布都御魂ともいう。この刀は石上神宮に鎮座する。タカクラジは続けて「タケミカヅチに『この太刀はタカクラジの倉の棟を穿ってそこから落とし入れることにする。だからお前はそれを見つけてイワレヒコに献上せよ』と告げられたので翌朝倉の中を見るとその通りに太刀があった。それでこれを献上するのだ」と言った。

このように布都御魂(佐士布都神、甕布都神とも)はイワレヒコが熊野を通過し大和を平定するにあたり活躍した剣で、タカクラジを通して得られ、石上神宮に鎮座していることが記されています。

布都御魂を石上神宮に祀った事情について記紀には何ら記されていませんが、物部系の史書である『先代旧事本紀』にはその様子が描かれています。

それによれば、神武天皇の即位後にニギハヤヒの子である宇摩志麻治命が天瑞宝を天皇に奉り、布都主剣大神(布都御魂)を宮中に祀ったことが記され、さらに天孫本紀によれば、下ってニギハヤヒの六世孫である伊香色雄命が崇神天皇の御代に布都大神を大倭国山辺郡石上邑に遷して社を建て、天璽瑞宝も共に収めて「石上大神」とし、物部氏の氏神として祀ったことが記されています。

このように当初は布都御魂は宮中に祀られていたものの、崇神天皇の御代に石上の地に天璽瑞宝と共に遷して祀ったことが記されており、『先代旧事本紀』に従えばこの頃が当社の創建と言えましょう。

 

その後当社については垂仁天皇の御代にも記紀に言及があります。『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条に次のように記されています。

『日本書紀』(大意)

五十瓊敷命(イニシキ/垂仁天皇の皇子)は茅渟菟砥川上宮(大阪府阪南市の菟砥川流域か)で剣を一千口作り、その剣を「川上部」と名付け、また「裸伴(あかはだかとも)」とも名付けた。これらは石上神宮に納め、この後石上神宮の神宝を掌った。

このように五十瓊敷命は一千口もの大量の剣を当社に納め、また当社の神宝を管理したことが記されています。

布都御魂に加えてこれら大量の剣を蔵していたことから当社は古代における武器庫としての役割をも担っていたことが推測されます。

その後『日本書紀』垂仁天皇八十七年二月条には次のように記されています。

『日本書紀』(大意)

五十瓊敷命は妹の大中姫に「私はもう老いてしまったので神宝を掌ることができなくなってしまった。あとはお前に頼みたい」というと、姫は「私はか弱い女なので」云々と辞退した。そこで大中姫は物部十千根大連という人物に授けて治めさせた。このために物部連が今石上の神宝を治めているのである。

とあり、『日本書紀』においては物部氏が当社の神宝を管理していることをこの時点で初めて明言しています。

先述の通り『先代旧事本紀』はこれより遡る崇神天皇の御代に当社を創建し物部氏の氏神としたことが記されており、矛盾が生じています。

『先代旧事本紀』は物部氏の系譜を詳しく載せていることから物部系の人物が著したと考えられており、石上神宮における物部氏の影響がより古く、かつ深く及ぼしているよう誇張している可能性も考えられます。

その一方、再び『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条に戻ると、別伝として石上神宮に一千口の剣を納めたとき神が「春日臣一族の市河という者に納めさせよ」と告げたのでその通りにし、これが今の「物部首」の始祖である、とも記されています。

非常に紛らわしいですが、「物部首(もののべのおびと)」とは物部氏ではなく、天足彦国押人命を祖とする和珥氏の一族です。『新撰姓氏録』によれば大和国皇別に天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後裔であるという「布留宿祢」が登載されており、さらに次のように記されています。

『新撰姓氏録』(大意)

子は木事命。その子は市川臣。仁徳天皇の御代、布都奴斯(ふつぬし)神社(=石上神宮)を石上の御布留村高庭の地に祀り、市川臣を神主とする。

四世孫は額田臣と武蔵臣。斉明天皇の御代、蘇我蝦夷は武蔵臣を物部首ならびに神主首とする。

その子は正五位上日向。天武天皇の御代、社の地名によって姓を布瑠宿祢と改める。日向の三世孫は邑智らである。

このように少なくとも天武天皇の御代まではこの氏族が当社の祭祀に関わっていたことが示されています。

一般に当社は物部氏の氏神であると捉えられており、当初は和珥系の氏族によって祭祀されていたとなれば意外に思えますが、当社の北方一帯は和珥氏の本拠地の一つであり、天理市櫟本町に「和爾下神社」、大和郡山市横田町に同じく「和爾下神社」、天理市和爾町に「和爾坐赤阪比古神社」など和珥氏関係の神社が近隣に鎮座することを考えれば決して無理な話ではないのでしょう。

ただ、物部氏が軍事氏族だったことを考えれば、武器庫としての役割もあった当社に当初から何らかの形で物部氏が関わっていたことは想定して良いかと思われます。

現に当社周辺に存在するいくつかの古墳や遺跡は物部氏のものであると指摘されています。

天武天皇の時代には物部氏の勢いは凋落していたものの、当社においてはその後物部氏の影響力が拡大しいつしか完全に祭祀権を得たのかもしれません。

 

その後当社の南方にあった「内山永久寺」が当社の神宮寺となりましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、それに代わるように天理市に本部を置く新宗教である天理教が勢いを増し、近代以降は当社周辺の勢力図は大きく様変わりします。

それでも当社は当地付近における有力な神社として今尚存在感を発揮し続けています。

なお当社の拝殿は国宝、楼門は重要文化財となっています。

その他神宝として「七支刀」が伝わっており、古墳時代に海外で製作されたもので、銘文から太和四年(369年)のものであるとも言われています。こちらも国宝に指定されています。

一説にこの七支刀は『日本書紀』神功皇后摂政五十二年の条に見える百済から献上された七支刀一口であるとも言われています。

真偽はともかく、古くからの当社の武器庫としての性格を表す一品と言えましょう。

なお、これも真偽は不明ですが、石上神宮に納められていた十種神宝は流出して現在は大阪府大阪市平野区喜連の「楯原神社」に納められているとも言われています。

 

出雲建雄神社

石上神宮の境内に鎮座する摂社であり式内社です。御祭神は「出雲建雄神」で、草薙剣の荒魂とされています。

社伝によれば、天武天皇の御代に神主の夢に布留川の上流に八重雲が立ち、その雲の中で神剣が輝いているという夢を見、翌朝その地へ行ってみたところ八つの霊石があり、神から「我は尾張氏の女が祀る神である。今この地に天下って皇孫や庶民を守護しよう」と託宣があったので、当地に社殿を建てて祀ったのが当社だとされています。

近世には石上神宮の御祭神の一柱「布都斯魂大神」(天十握剣の神霊)の御子神とされ、「若宮」とも称していました。

拝殿はかつて内山永久寺の鎮守だった住吉神社のものを大正三年(1914年)に移築したもので、正安二年(1300年)に建立された極めて貴重な建築。国宝に指定されています。

 

境内の様子

天理大学の東側を南北に走る道路に沿って当社の入口があります。当社の入口は複数ありますがここが最もわかりやすい入口です。

 

入口を抜けると鬱蒼とした社叢となっており、さらに進むと正面に西向きの鳥居が建っています。

 

鳥居をくぐった様子。参道はしばらく鬱蒼とした森が続きますが、そこから少し進むと広々とした明るい空間に出ます。

 

この空間を進み左側(北側)に石垣の上に朱塗りの廻廊を巡らした社殿が堂々と構えており、まるで城郭のような威厳ある出で立ちとなっています。

 

廻廊の向かい側(南側)に手水鉢が配置されています。

 

さらに参道を進むと檜皮葺・平入入母屋造の一間一戸の楼門が南向きに建っています。

この楼門は文保二年(1318年)に建立された貴重なもので、国指定重要文化財となっています。

楼門に掲げられている「萬古猶新」の扁額は山縣有朋の揮毫。

古くは楼門に鐘が吊るされていましたが明治の神仏分離令により売却されました。

 

楼門をくぐると正面に拝殿が南向きに建っています。拝殿は檜皮葺・平入入母屋造に向拝の付いたもので、朱が施されています。

桁行七間、奥行三間の大規模な建築で、一見仏堂のようにも見える建築です。

伝承では永保元年(1081年)に白河天皇が宮中の神嘉殿を寄進したものと伝えられていますが、建築様式からこれより下り鎌倉時代初期の建立であると考えられています。

極めて貴重な建築であることには変わりなく、国宝に指定されています!

 

拝殿後方には檜皮葺・流造の本殿が建っています。

かつて当社に本殿は無く、ここに神剣である「韴霊(ふつのみたま)」が埋納されていると伝えられ拝殿後方は禁足地とされていました。

明治七年(1874年)に発掘したところ剣や玉、鏡等多数の宝物が出土しました。

この際に出土した剣が韴霊とされ、大正二年(1913年)にこれを御神体として奉安するために本殿が造営されました。

実見することはできませんが本殿の前に大きな丸石が置かれ、そこから件の剣が出土したと言われています。

 

本殿側から楼門と廻廊を見た様子。楼門から左右に伸びる廻廊は古いものでなく昭和七年(1932年)に造営されたもので、西廻廊は授与所となっており、東廻廊には当社に関する展示物が置かれています。

 

楼門のすぐ向かい側(南側)に高台があり、石段が伸びています。この高台の上に境内社が鎮座しています。

 

石段を上ると左側(東側)に式内社の「出雲建雄神社」が西向きに鎮座しています。御祭神は「出雲建雄神」。

石段の上に鳥居が建ち、その先に檜皮葺・一間社春日造の社殿が建っています。

当社の由緒については概要をご参照ください。

案内板

摂社 出雲建雄神社 式内社

 

出雲建雄神社の社殿の手前側(西側)には出雲建雄神社の拝殿が建っています。

この拝殿は檜皮葺・平入切妻造で正面に唐破風の付いた割拝殿です。

元々は内山永久寺の鎮守社である住吉神社のものでしたが、明治の廃仏毀釈に寄り内山永久寺は廃寺となり、残されたこの拝殿は大正三年(1914年)に当地に移築されました。

内山永久寺の貴重な遺構であると共に、この建築自体も正安二年(1300年)に建立された極めて貴重なもので、国宝に指定されています!

大阪府堺市南区片蔵の「桜井神社」の拝殿と共に現存最古級の拝殿です。

 

出雲建雄神社の社殿右側(南側)に「猿田彦神社」が西向きに鎮座。御祭神は「猿田彦神」で「底筒男神」「中筒男神」「上筒男神」「息長帯比売命」「高龗神」を配祀しています。

檜皮葺の春日造。江戸時代には「祭王御前」「山上幸神」「道祖神社」などと呼ばれ、元は現在地よりさらに東方の山中に鎮座していたようです。

配祀されている「底筒男神」「中筒男神」「上筒男神」は内山永久寺の鎮守神だった住吉神社から合祀したもの。

案内板

末社 猿田彦神社

 

出雲建雄神社の左側やや奥まったところ(北東側)に「天神社」が西向きに鎮座しています。御祭神は「高皇産霊神」「神皇産霊神」。

石段の上に鳥居が建ち、一間社春日造の社殿となっています。古くは「天神御祖神殿」「八王子殿」などと称しました。

 

天神社の右側(南側)に「七座社」が北向きに鎮座。御祭神は「生産霊神」「足産霊神」「魂留産霊神」「大宮能売神」「御膳都神」「辞代主神」「大直日神」。

七つの扉を持つ長い流見世棚造となっています。古くは「長庄神殿」などと称しました。

天神社と七座社の神々は宮中の神祇官西院の八神殿に祀られた宮中八社に大直日神を加えたもので、古くから石上神宮の鎮魂祭と深い関わりがあると言われています。

案内板

摂社

 

道を戻ります。手水鉢の向かい側(西側)には参拝者や山の辺の道のハイカーのための休憩所が建っています。

銅板葺の切妻造で、元々は当社拝殿前にあった舞殿だったものを改造したものです。

 

休憩所の背後には「鏡池」と呼ばれる大きな池が広がっています。古くは「石上池」とも称したようです。

この池には「ワタカ」という珍しい魚が生息しており、奈良県の天然記念物に指定されています。

ワタカは「馬魚」とも呼ばれ、元々は内山永久寺の池に生息していたのを移したと言われています。

伝承では、南北朝の時代、後醍醐天皇が吉野へ向かう際に内山永久寺に立ち寄り、馬が嘶いて追っ手に気付かれるのを憂えて馬の首を斬って池に投じ、その後池に草を食べる魚が住み着くようになり、これは馬の首が魚になったとも伝えられています。

また別の伝承では、後醍醐天皇の乗っていた馬が内山永久寺で息絶え、その後亡霊として魚に乗り移り魚の顔が馬の顔になり草を食べるようになったとも伝えられています。

案内板

天然記念物 石上神宮鏡池のワタカ

 

当社の境内では多くの鶏が放し飼いにされています。古くから飼育されていたわけでなく、昭和末期頃から奉納されていったようです。

今では当社のマスコット的な存在として人気を集めています。

 

境内の隅には何故か牛の銅像が設置されています。

一般に天神信仰や祇園信仰の神社に牛の像が奉納されていますが、当社はそうした信仰とは無関係です。

 

境内周辺の様子

神田(こうだ)神社

石上神宮の西側入口から道路を挟んで西方に末社の「神田神社」が鎮座しています。御祭神は「高倉下命」。

元々は天理市三島町小字神田の地に鎮座していたのが平成二年(1990年)に当地に遷座しました。旧地には石上神宮の神田があり、そこで収穫された米が石上神宮の祭典で用いられました。

森の中に社殿が西向きに建ち並び、拝殿は妻入切妻造の簡素なものとなっています。

 

拝殿後方の石段上に神明鳥居が建ち、その奥に銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。

 

拝殿の傍らに「烏帽子岩」と呼ばれる岩石が置かれており、これは布留川で採れたものだと言われています。

この岩石については次のような伝承があります。

昔、布留川のほとりに一人の老婆(別伝では若い娘であるとも)が住み、川で洗濯していると一口の剣が流れてきた。この剣は木の根や岩などあらゆるものを切りながら流れてきたが、洗っていた白い布は切れず、これで掬い上げた。尋常な剣でないと悟った老婆は石上神宮へ奉納し、神主からたくさんの褒美をもらった。

この話を聞いた隣に住む欲張りな老婆は、もっと良いものが流れてくるのではと期待して川へ通うも何も流れてこなかった。ある日良い夢を見たので喜んで未明の内に川へ行ってみると烏帽子や冠が流れて来たのでこれを拾ったが、夜が明けて明るくなるとそれは烏帽子や冠の形をした石であった。

布留という地名は最初の老婆が布で剣を留めたところなのでそう呼ぶようになったという。

このように欲張りな老婆が烏帽子だと思って引き揚げたのがこの岩石であるとされ、強欲を戒める寓話とはなっていますが、この岩石も今では丁重に扱われているようです。

また、川から剣が流れて来たというモチーフは石上神宮の祭祀の原初的な様子を伝えている可能性があり、武器庫として宝剣が祭祀される以前は水の側で女性が水神の祭祀を行ったのが当地における古い信仰だったことを示唆しています。

石上神宮の拝殿後方一帯が禁足地とされているのはその名残かもしれません。

 

ハタの滝

石上神宮の境内東方400mほどのところに「ハタの滝」と呼ばれる滝があります。布留川の本流と支流のそれぞれに小さな滝があり滝壺に流れ落ちています。

近世にはこの場所に「祓殿」があり、かつて六月三十日の夏越大祓式の際にはこの場所に神剣が渡御していたと言われており、石上神宮の祭祀において神聖な地だったようです。

案内板

ハタの滝

 

タマ姫
この神社は剣の霊を祀ってるんだって!むっちゃかっこいい!
ここは古代は多くの武器を納めた武器庫だったとも考えられているのよ。珍しい七支刀が伝えられているのもそれを示すものじゃないかしら。
トヨ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板

石上神宮

 

地図

奈良県天理市布留町

 

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