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楯原神社 (大阪府大阪市平野区喜連)

社号楯原神社
読みたてはら
通称
旧呼称天神社、天満宮 等
鎮座地大阪府大阪市平野区喜連6丁目
旧国郡摂津国住吉郡西喜連村
御祭神武甕槌大神、大国主大神
社格式内社、旧村社
例祭10月15日

 

楯原神社の概要

大阪府大阪市平野区喜連6丁目に鎮座する式内社です。

当社はかなり複雑な歴史をたどっており、社伝によれば概ね次のように伝えられています。

  • 崇神天皇七年の創建で、元は楯原という字(現在の喜連西1丁目)に鎮座していた。
  • 桓武天皇の御代、十五という字に鎮座していた「龍王社」(「赤留姫命」を祀る)を合祀し、その龍王社を「奥の宮」と称した。この「龍王社」は「赤留比賣命神社」(現在は平野区平野東に鎮座 / 当時は「中山」なる地に鎮座していたという)から勧請されたと伝えられる。
  • 文明十三年(1481年)に現在地の近くに遷座。
  • 元和年間(1615年~1624年)に暴風雨で社殿が壊れたため現在地に遷座し社殿を造営。
  • 同年に付近に鎮座していた「天神社」(「孝元天皇」を祀っていたと伝える)を合祀し、後に「菅原道真」を祀るようになった。このため当社(本来の式内社「楯原神社」)は「天神社」「天満宮」と呼ばれるようになり、一方で式内社「楯原神社」は誤って「奥の宮」であるとされた。
  • 誤ったまま明治五年(1872年)に「奥の院」が「楯原神社」として村社に列せられ、一方で本来の「楯原神社」である「天神社」は社格が得られなかった。(ただし案内板には「併祀の天神社が村社となる状況であった」とある。その他、異伝を記す資料もありこの辺りの事情は錯綜している)
  • 明治四十年(1907年)の神社整理の際に本社たる「天神社」に「楯原神社(奥の宮)」他を合祀し「楯原神社」と改めて復した。

また、当社の創建の由緒として次のようにも伝えています。

  • 武甕槌大神」は「大国主大神」の教えに従い国平(くにむけ)の矛を持って天下を巡行した後にこの地に留まっていたが、孫の「大々杼命」なる人物に「十握の剣を私の霊代として、また国平の鉾を大国主大神の霊代として祀れ」と遺言して天に昇った。
  • その子孫でありこの地の豪族であった「大々杼名黒」なる人物が、崇神天皇から「武甕槌大神と大国主大神を同じ社で祀ることは畏れ多い」との詔を受け、楯原の地に武甕槌大神の十握の剣を「楯の御前社」、大国主大神の国平の鉾を「鉾の御前社」として別々に祀った。
  • 神功皇后の御代に詔により「楯の御前社」を「楯原神宮」に改称し、大々杼氏は「息長氏」に改名した。

この由緒について、旧・喜連村の北村某が伝えていたという文書『北村某の家記』(『大阪府全志』に収録)に極めて詳細に記されています。この文書の位置付けは諸説あり、作為的であり全く信憑性に欠けるものとする説もある一方で、一部に資料的価値を見出す説もあります。

「大々杼命」なる人物や「大々杼氏」なる氏族は記紀に見えず、他にも正史に見えない人物が数多く登場しますが、全体的には概ね記紀を元に付会したものと考えられています。

 

一方、住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』によれば、住道神に関して「託宣によって移徒し、河内國丹治比郡の楯原里に坐す。故に住道里の住道神と号す」とあり、当社との関連性は不明ながらスムチの神が当社鎮座地近くに鎮座していたようです。(ただし摂津国でなく河内国。国境の変遷があったのかもしれない)

当社鎮座地の地名「喜連」が「呉」の転訛(『倭名類聚抄』の摂津国住吉郡「伎人(クレヒト)郷」の遺称であると考えられる)であり、磯歯津路の「呉坂」との関係が考えられることからも、当地付近に磯歯津路に関係する神とされるスムチの神が鎮座していたのも当然と言えるかもしれません。(スムチの神についての詳細は神須牟地神社中臣須牟地神社の記事を参照)

『住吉大社神代記』には子神などの関係社として当社の記載はありません。しかし、住吉大社と関係の深いスムチ神が近隣に鎮座していたことに加え、住吉大社の社殿の左右に「楯の御社」と「矛の御社」が鎮座しており、当社との関連性が示唆されます。

もし当社と「住吉大社」との間に深い関わりがあったのならば、その中で住吉大社と関連の深い神功皇后と結びつき大々杼氏の伝承が生じていったのかもしれません。

 

このように当社に伝わる創建伝承や中世以降の経緯は非常に複雑であり、調べるほどに奥の深い神社となっています。

多く付会が含まれているとしても、それは当地における長い歴史の間で形作られていったものと言えるのかもしれません。

 

境内の様子

楯原神社

当社の境内入口は西側と南側の二ヶ所ありますが、社殿からの正面にあたる西側の入口から入っていきます。

こちらの入口には西向きの鳥居が建っています。

 

西側鳥居をくぐると参道が真っすぐに伸び、左右に桜などの木が並んでいます。

ただし、2018年の台風21号の影響により境内の多くの樹木が倒壊してしまい、2019年現在はこの光景とは一変しています。(写真は2015年のもの)

 

楯原神社

楯原神社

正面奥に社殿が西向きに建っています。

拝殿は平入入母屋造に軒唐破風と千鳥破風が付いたもの。本瓦葺でどっしりとした印象です。

 

拝殿前の狛犬。花崗岩製で、こちらもどっしりと構えています。

 

楯原神社 本殿

本殿は塀に囲まれて建っており、千鳥破風の付いた一間社流造。幣殿のような建物で接続しており権現造のような形になっています。

江戸時代前期の元和年間(1615年~1624年)の建立で、大阪市指定文化財。当地に遷座して以来の建築です。

 

社殿の後方(東側)に境内社が鎮座しています。

境内北東隅に「正一位稲荷大明神」が南向きに鎮座。

二基の朱鳥居が建ち、流造風の覆屋の中に銅板葺・一間社流造の社殿が納められています。

 

正一位稲荷大明神の手前側(南側)、境内東端に「楠社」が西向きに鎮座。

大阪市内ではクスノキに龍蛇が住まうとする信仰がよく見られ、こちらもその類と思われますが、周囲にクスノキがありません。枯死したのか、どこかから遷座してきたのかもしれません。

 

本社社殿と正一位稲荷大明神の間に、とても珍しい「神寶十種之宮」が南向きに鎮座しています。御祭神は「布留御魂大神(十種神宝)

十種神宝とは物部氏の祖・ニギハヤヒが授かったという物部氏ゆかりの神宝です。

元々は奈良県天理市布留町に鎮座する物部氏の氏神「石上神宮」に納められていましたが、戦乱や幕末の動乱に巻き込まれ町の古道具屋の店頭に並んでいたのを喜連の住民が購入し祀ったものだといわれています。

案内板

神宝十種宮略記

 

境内の南東隅に建つ絵馬殿。本瓦葺の平入切妻造で、半ば物置小屋と化していました。吊り下げられてる鐘が気にかかるところ。

 

実質的な表参道は南側でしょうか。本社社殿手前の南側に南向きの鳥居が建ち、手水舎もこちら側に設置されています。

 

楯原神社 桜

境内は桜の木が多く、桜の咲く時期はこのように美しい光景を見せてくれます。

 

当社の周辺には古い町並みがよく残っています。

大阪市内でもまだまだこのような景観は比較的残っているものです。

 

タマ姫
うわー、何だかむっちゃ複雑な歴史があるんだね!
伝えられてる由緒は記紀を下地にしつつも、長い歴史があることが反映されてるんじゃないかしら。
トヨ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板

式内楯原神社

石碑

式内楯原神社ノ由来

『摂津名所図会』

 

地図

大阪府大阪市平野区喜連6丁目

 

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