社号 | 杜本神社 |
読み | もりもと |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 大阪府羽曳野市駒ケ谷 |
旧国郡 | 河内国古市郡駒ヶ谷村 |
御祭神 | 経津主命、経津主姫命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 4月8日、10月7日8日 |
杜本神社の概要
大阪府羽曳野市駒ケ谷に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、古くは非常に有力な神社でした。
柏原市国分東条町にも「杜本神社」があり、共に式内社「杜本神社」の論社となっています。
社伝によれば、経津主命の十四世孫、「伊波別命」がこの地に住んで祖神を祀り、その子孫の「矢作忌寸」が代々奉斎したのが当社であると伝えています。
「伊波別命」なる人物は記録に見えませんが、『新撰姓氏録』には河内国の未定雑姓に布都奴志乃命の後であるという「矢作連」が記載されており、この氏族に関連するかもしれません。(ただし一般的には八尾市南本町に鎮座する「矢作神社」の奉斎氏族と解されている)
一方、当社社頭に羽曳野市により設置された案内板は全く異なる説明がなされており、次のように記されています。
- 当社は平安時代初期は「百済宿禰永継」とその祖の「飛鳥戸氏」を祀る神社であった。
- 永継の子の冬嗣は、娘の順子と仁明天皇との間の子である文徳天皇が即位すると実権を握るようになった。
- 永継とその祖を祀っていた当社は『延喜式』神名帳の名神大社となった。
ここに言う「百済宿禰永継」とは百済系の渡来系氏族である「飛鳥戸氏」の子孫「飛鳥部奈止麻呂」の娘であり、藤原北家の公卿である「藤原内麻呂」の妻となり「藤原冬嗣」らを儲けました。
冬嗣が実権を握っていったのは案内板に記されている通りであり、当社が名神大社として高い社格を得たのは冬嗣の母およびその祖を祀る縁故によるもの、としています。
当社の近隣には飛鳥地区に「飛鳥戸神社」が鎮座しており、やはり『延喜式』神名帳に名神大社として列せられています。「飛鳥戸神社」が高い社格を得たのはまさしく冬嗣の縁故と言えるものでしょう。
当社に関しても同様に「飛鳥戸氏」の神を祀っていたとすれば高い社格も確かに納得です。
しかしこれは比較的近年に発表された説のようで、辻褄は合っているとしてもそのような記録や伝承は全く無く、推測に過ぎない点にやや難があります。
いずれにせよ『延喜式』神名帳に名神大社に列せられると共に、『延喜式』内蔵寮にも「杜本祭」が記載され、内蔵寮から供物や幣使が遣わされるなど、破格の待遇と言って良いほど古くは非常に有力な神社だったようです。
その後、織田信長の高屋城攻めの際に兵火に遭って焼失・衰微しましたが、江戸時代に神宮寺である「金剛輪寺」の僧、覚峰によって再興され現在見るような立派な神社となりました。
現在も社伝を踏襲し、当社を奉斎したと伝える「矢作忌寸」らの祖であるという「経津主命」「経津主姫命」の二柱を祀っています。
なお当地は江戸時代は古市郡でしたが、『延喜式』神名帳では安宿郡となっています。
隣接する飛鳥地区も安宿(部)郡の由来となる地と考えられますが江戸時代には古市郡に属しており、郡域の変遷があったと推定されます。
境内の様子
境内入口。入口両側に建つガッシリとした灯籠は安永九年(1780年)のもので、堂々たる書体で大きく「杜本社」と刻まれています。
参道奥の石段上に一の鳥居が南向きに建ち、これをくぐって境内の中へ入っていきます。
参道をさらに進んでいくと二の鳥居が西向きに建っています。
これをくぐり竹藪の中の参道を曲線を描きながら進んでいくと、鬱蒼とした森の中に社殿のある空間が見えてきます。
参道の左側、社殿のある空間の南側に手水舎があります。
社殿の建つ空間は南北に長く、その中心に社殿が東向きに建っています。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造。江戸時代中期の地誌『河内名所図会』の挿絵には拝殿が描かれておらず、江戸時代では本殿に直接参拝する形だったようです。
一方、現代では本殿は塀に囲まれて見ることすらできません。
本殿の前には「隼人石」と呼ばれるかなり珍しい石造物があるらしく、獣面人身の刻まれた自然石が左右に一対配置されているようです。鼠のような顔の人(?)が刻まれてるようで、実物を見てみたいものです。
拝殿前に配置されている狛犬。キリッとした顔立ちです。
境内南側の様子
社殿の左側(南側)に境内社が並んでいます。本社社殿に近い方から順番に紹介していきましょう。
本社社殿のすぐ左隣(南側)に「天満宮」が東向きに鎮座。
鳥居が建ち、奥に覆屋の中に板葺の流見世棚造の社殿が納められています。
天満宮の左隣(南側)に「光國大明神」が東向きに鎮座。御祭神は「稲荷大神」。
朱鳥居が建ち、奥に流造の社殿(覆屋?)が建っています。
光國大明神の左側(南側)に丸っこい石碑があり、「猿田彦大神」と刻まれています。
猿田彦大神の左側(南側)に「光吉大明神」が東向きに鎮座。こちらも御祭神は「稲荷大神」。
社殿は銅板葺の一間社流造で向拝の付いたもの。
光吉大明神の左側(南側)最も南にあるこちらの境内社は、社名は不明ですが、神明造であること、灯籠に「太神宮」とあることから、天照大神を祀っているものと思われます。
境内北側の様子
本社社殿の右側(北側)に鳥居が南向きに建っています。
この先にも参道が続いており、こちらも境内社の鎮座する空間となっています。
先の鳥居をくぐると、左側(西側)に「藤原永手の墓碑」とされるものがあります。
「藤原永手」は奈良時代の公卿ですが、ここにこの人物の墓とされるものがある理由は不明。
墓碑の右隣(北側)に「亀ノ石」なる岩石が覆屋の下に配置されています。由来は不明。神具が置かれているものの祭祀の対象なのかもはっきりしません。
境内北側の奥に「維日谷稚宮(イビヤワカミヤ)」が南向きに鎮座。御祭神は「反正天皇」「伊波別命」「遠登売命」。
鳥居が建ち、奥に銅板葺の妻入入母屋造の社殿(覆屋?)が建っています。
仁徳天皇の崩御で皇位継承をめぐる騒擾の中、反正天皇が大和へ向かった際にこの地で遠登売命と出会い、その忠言に従って一夜禊をしたと伝えられています。
元は駒ヶ谷の南300mの松林に祀られていたと言われています。
維日谷稚宮の左隣(西側)に「南木神社」が南向きに鎮座。御祭神は「楠木正成公」。
ブロック塀の覆屋の中に一間社流造の社殿が納められています。
その左側(西側)の傍らに「大楠公御首塚」があり、五輪塔が安置されています。湊川で戦死した正成公の首をここで密かに隠して敵の目を逃れたと伝えられています。
境内周辺の様子
当社の神宮寺に「金剛輪寺」がありましたが、廃仏毀釈により明治四年(1871年)に廃寺となり、現在は境内を少し下ったところに僅かに一宇の桟瓦葺・宝形造のお堂があるのみとなっています。
江戸時代中期~後期にかけて金剛輪寺の僧侶だった「覚峰」は上代の研究家でもあり、当社の再興にも尽力しました。
案内板
金剛輪寺址
神社の前の道は飛鳥時代に整備された官道「竹内街道」を前身とする極めて古い道で、江戸時代にも伊勢街道として多くの人の往来で賑わい、今も古い町並みの残る情緒ある道となっています。


御朱印
由緒
案内板
歴史街道 杜本神社
『河内名所図会』
地図
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