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糸井神社 (奈良県磯城郡川西町結崎)

社号糸井神社
読みいとい
通称
旧呼称春日社、結崎大明神、大和大神宮 等
鎮座地奈良県磯城郡川西町結崎
旧国郡大和国式下郡市場村
御祭神豊鍬入姫命、猿田彦命、綾羽明神、呉羽明神
社格式内社、旧村社
例祭10月第4日曜日

 

糸井神社の概要

奈良県磯城郡川西町結崎に鎮座する式内社です。

社伝によれば、応神天皇の御代、呉国からアヤハ・クレハという織女が来て河内国丹比野で養蚕を始め、天皇の勅を受けて大和の黒田廬戸宮(第七代・孝霊天皇の皇居。田原本町黒田付近か?)の辺りで綾織を織ったと伝えられ、これに関して当社が創建されたとも伝えられています。

『日本書紀』応神天皇三十七年二月の条に阿知使主と都加使主を呉に遣わせて織物の工女を求め、兄媛、弟媛、呉織、穴織の四人の工女を呉王から与えられたことが記されています。さらにその後四十一年二月の条に胸形大神(「宗像大社」の神)が工女を欲したので兄媛を奉り、残りの三人は摂津国の武庫に着いたものの、天皇は既に崩御していたので仁徳天皇に奉ったと記されています。

社伝はこの記事を前提にしており、アヤハ・クレハは穴織・呉織に対応しているものの、『日本書紀』には彼女らが河内や大和で養蚕や織物を行ったとは特に記されていません。この部分は当地における伝承なのでしょう。

 

一方で西方750mほどの唐院地区に鎮座する「比賣久波神社」は養蚕の守護神として祀られたことが考えられ、また当社の社名「糸井」や当地の地名「結崎」からしても、当地一帯で古くから養蚕や機織りが行われ織物の一大生産地となっていたことが推測されます。

このような中で織物の守護神として機織りの技術者集団に奉斎されたのが当社だったことが考えられます。

また一方で『新撰姓氏録』大和国諸蕃に新羅国の人、天日槍命の後裔であるという「糸井造」が登載されており、この新羅系の渡来系氏族が当地に居住し祖神を祀ったことも考えられます。

社伝では呉の機織りの技術が伝えられたとしていますが、実際には新羅の機織りの技術が糸井氏によってもたらされた可能性が考えられるかもしれません。

 

当社は江戸時代以前は「春日社」「結崎大明神」「大和大神宮」などと呼ばれていました。

現在の御祭神は「豊鍬入姫命」とする資料の他、「猿田彦命」「綾羽明神」「呉羽明神」の三柱を加えたものとする資料も多く見られます。

主祭神である「豊鍬入姫命」は社伝では「大倭明神」、つまり天理市新泉町の「大和神社」の神であるとも伝えられており、かつて「大和大神宮」とも称したことの名残とも思われますが、これはやや不審な話です。

大和神社の創建説話となる『日本書紀』崇神天皇六年の条には天照大神と倭大国魂神を天皇の大殿と同所で祀ることを畏れたため別のところで祀らせたとあり、ここに豊鍬入姫命は登場しますが、豊鍬入姫命が担当したのは天照大神であって倭大国魂神でありません。倭大国魂神の祭祀を担当したのは渟名城入姫であり、その後に市磯長尾市によって祭祀されることで安寧を得たとあるため、恐らくどこかで話を誤ったまま伝えられたのでしょう。

『延喜式』神名帳には特に何座であるとは記されていないため元々は一柱のみが祀られていたと思われ、恐らく本来は織物に関する神か、もしくは糸井氏の祖である「天日槍命」が祀られていたものと思われます。

いずれにしても当地は古く紡績業で栄えた地であり、その産業守護神として祭祀されたのが当社だったことでしょう。

一方で当社には「雨乞い絵馬」などが伝えられており、近世には降雨と農作物の実りを司る農耕神的な神格となっていたことも窺えます。

 

境内の様子

糸井神社

当社は結崎地区の内、かつての市場村だった地に鎮座しています。

集落の西方、寺川の右岸側に当社境内があり、南側の入口に朱の両部鳥居が南向きに建っています。

 

鳥居をくぐった様子。境内は広く、鳥居から社殿まで一直線となっており、杉などの針葉樹の巨木が多く生い茂っています。

 

鳥居をくぐってしばらく進むと左側(西側)に手水舎が建っています。

 

糸井神社

糸井神社

さらに進むと正面奥に社殿が南向きに並んでいます。

拝殿は本瓦葺の平入入母屋造に妻入入母屋造の向拝の付いたもの。桁行五間で、両端の柱は棟より左右外側に飛び出ているため大仰な印象。

 

拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製で天保十三年?(1842年?)の奉納。

 

拝殿後方に大きな基壇があり、中門・透塀に囲まれて本殿や境内社が南向きに並んでいます。

拝殿と中門の間には妻入切妻屋根が設けられており渡り廊下のようになっています。中門前には鈴の緒と賽銭箱が設置されており、拝殿前と共にこちらも拝所として機能しています。

 

糸井神社

中門の後方に檜皮葺・朱塗りの一間社春日造の本殿が建っています。

この本殿は江戸時代に「春日大社」の古殿を移築したものとされ、式年造替の際に近隣の関係社に旧殿を譲渡したいわゆる「春日移し」の一例です。

当社は中世室町期の春日曼荼羅も所蔵しており、江戸時代以前は「春日社」とも称したことから春日大社や興福寺と関係が深かったようです。

 

本社本殿の右側(東側)に境内社が三社並んでいます。いずれがいずれであるかは不明ながら、手持ちの資料では「春日神社」「大国主・事代主相殿社」「住吉神社」が鎮座するとあります。

社殿はいずれも銅板葺・朱塗りの春日見世棚造。

さらに写真では見えませんが三社の右側(東側)に「稲荷神社」の小祠が西向きに鎮座しています。

 

絵馬

当社には非常に多くの絵馬が伝わっており、拝殿内に掲げられています。

中でも天保十三年(1842年)に奉納された「太鼓踊り絵馬」は雨乞い祈願のために太鼓踊りをしているもので、非常に良好な状態で残っているのみならず、当時の民俗がよくわかる貴重な資料として奈良県指定有形文化財となっています。

右下にはスイカを切り分けて売っている人も描かれています。

 

また、こちらはおかげ踊りの様子を描いた絵馬。応永四年(1868年)に奉納されたもので、こちらも奈良県指定有形文化財となっています。

案内板

糸井神社の絵馬

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神社の拝殿内には様々な絵馬が飾られていますが、中でも多くの人たちが雨乞い等の願を掛けるために太鼓踊りをしている様子を描いた天保13年(1842)のものや、おかげ踊りを踊る様子を描いた慶應4年(1868)のものがひときわ目につき、それぞれ「太鼓踊り絵馬」「おかげ踊り絵馬」と呼ばれております。

「太鼓踊り絵馬」の中には西瓜を切り売りしている様子や、僧侶が灯籠に火をともしている様子などが描かれて、当時の生活や、神仏習合の一端が垣間見られる良好な資料となっています。

これら二つの絵馬は奈良県指定文化財に指定されています。

川西町教育委員会

 

当社には他にも騎馬武者絵馬(天保二年(1831年))、相撲絵馬(明治二十一年(1888年))、当時の社殿の様子がよくわかる雨乞い絵馬(明治二十七年(1894年))など多くの絵馬が伝えられています。

 

面塚

当社から寺川を渡って左岸側の畔に「面塚」と呼ばれるものがあります。

結崎地区は能を大成した観阿弥が伊賀国小波多に座を立てた後にここ結崎の地に移住し、子の世阿弥もここで生まれたと伝えられており、大和猿楽の四座ある内の一つ「結崎座」が立てられるなど、当地は能・猿楽と非常に関係の深い地です。

伝説では室町時代に一天俄かに掻き曇り寺川の畔に翁の面と葱が落下し、その翁面を埋めたところが面塚であると伝えられています。また別の伝承では当社に保存した後に春日大社へ移されたものの現在は所在不明となっているとも言われています。

一方の葱はこの地に植えてみたところ見事に生育したといい、「結崎ネブカ」として名物となっています。結崎ネブカは戦後には忘れられたものの近年になり地元の農家により復活し、現在は大和野菜に認定され奈良県内のスーパーなどでも購入が可能となっています。

 

「面塚」は寺川の改修により二度移転しており、現在は「面塚」と刻まれた石碑と「観世発祥之地」と刻まれた石碑の二基が建っています。これらは観世流第二十四世宗家観世左近(元滋)氏による揮毫です。

案内板

面塚の由来

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能楽は足利義満ら室町将軍家の庇護を受けて観阿弥・世阿弥父子が猿楽を幽玄華麗な芸道にまで高めたものです。「観世小次郎画像賛」「観世家譜」等によれば、伊賀国小波多に座を立てた観阿弥がここ結崎の地に移住し、ここで世阿弥が生まれたといい、「宝生座系図」では観阿弥が観世家を継ぎ、結崎の地に知行地を得たといわれています。

いずれにしても当地には古くから「翁の面と葱が天から降り、その面を埋めたのがこの塚である」という伝承がありました。そのため昭和十一年(一九三六)十二月十四日、当時の村役場が奔走して観世流第二十四世宗家観世左近(元滋)氏の揮毫(きごう)による「観世発祥之地」「面塚」の二つの標石を建立しました。

現在の面塚の地は、寺川の改修により二回移転しており、後に整備された面塚記念公園とともに、住民憩いの場としても親しまれています。

川西町教育委員会

 

タマヨリ姫
糸井って名前の神社だけあって元々は織物の神様だったんだね!
そうね。近くの「比賣久波神社」も織物に必要な養蚕の神様だったと考えられていて、この地域一帯は織物の一大生産地だったんじゃないかしら。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板

糸井神社

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祭神

豊鋤入姫命(トヨスキイリビメノミコト)

本殿

春日造檜皮葺

境内社

春日神社
大国主命神社(事代主命と合祀)
住吉神社
稲荷神社

延長5年(927)にまとめられた「延喜式神名帳」に記載されている式内社で、本殿も江戸時代に春日大社から移建されたものです。結崎内の五垣内(市場・中村・井戸・辻・出屋敷)により祀られています。

毎年十月第四土日に秋祭(土曜宵宮、日曜本祭)がおこなわれ、氏子が輪番でつとめるトウヤ(当屋、頭屋)の行事は当屋相撲など格調高く、大和祭礼の中でも注目すべきです。

案内板

川西町 町・村の歴史 大字 結崎

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大字結崎の概要

結崎は寺川の右岸にあり、中村・市場・辻・井戸・出屋敷の五つの垣内からなっている。

中世結崎郷は、結崎大明神(現糸井神社)を鎮守として、存在していた。1600年代に入ると「結崎之枝郷」として結崎市場村・中村・辻村・井戸村・梅戸村の五村となった。

1700年代の和州御領郷鑑の中では「中村・市場村・辻村・井戸村四か村出屋敷与申付」と記されている。その後、明治10年に四か村と出屋敷方が合併し、結崎村となった。

鎮守であった糸井神社は、延喜式内社。糸井神社の祭神は、「大和志料」の中に「本殿豊鍬入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神、同四ノ宮呉羽明神」と記されており、社伝中にも綾羽・呉羽の祭神とあることから、機織の技術集団の神と推察される。本殿は春日大社の古殿を移築したと伝えられ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、興福寺や春日大社との関係も深かったと考えらえている。

拝殿内には、多数の絵馬がある。中でも江戸時代に始まった、民衆が伊勢へ群参したおかげ参りに発する「おかげ踊り絵馬(慶応4年(1868)作」と江戸時代奈良盆地を中心に盛んであった雨乞いの踊りの形をあらわした「太鼓踊り絵馬(天保13年(1842)作」があり、何れも県の文化財として指定されている。

この糸井神社から南東へ200メートルほど行くと寺川河川敷に、面塚がある。

面塚は能楽観世流発祥の地として知られている。この面塚に関し、次のような伝説がある。『室町時代のある日のこと、一天俄かにかきくもり空中から異様な怪音と共に寺川(謡曲でいう糸井川)のほとりに何か落下した。この落下物は、一個の翁の能面と一束の葱であった。村人は、能面をその場に葬り(一説にここ糸井神社で保存、その後春日大社へ奉納されたというが現在は不明)、葱はその地に植えたところ、みごとに生育し戦前まで「結崎ネブカ」として名物になった。

何れにしても史実と幻想をおりまぜて伝えられたものといえる。

CN35周年事業 大和磯城ライオンズクラブ 贈 平成23年10月9日 LNo.60 結崎自治体

 

地図

奈良県磯城郡川西町結崎

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