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比売久波神社 (奈良県磯城郡川西町唐院)

社号 比賣久波神社
読み ひめくわ
通称
旧呼称 子守社 等
鎮座地 奈良県磯城郡川西町唐院
旧国郡 大和国式下郡唐院村
御祭神 久波御魂神、天八千々姫命
社格 式内社
例祭 10月20日

 

比賣久波神社の概要

奈良県磯城郡川西町唐院に鎮座する式内社です。

当社の創建・由緒は詳らかでありません。

天仁年間(1108年~1110年)に創建されたとする記録もありますが、当社は延長五年(927年)に完成した『延喜式』に記載される式内社であるため年代的に矛盾が生じることになります。より古くからの創建でしょう。

当社は古くから「桑の葉」を御神体としていたと伝えられ、桑の葉を以て養蚕や絹織物の生産を行った人々が当社を祭祀したことが考えられます。

東方750mほどの結崎地区に鎮座する「糸井神社」もまた織物に関する神社と見られることから、当地一帯は古く織物の一大生産地であったことが推測されます。

また当社の社名の「久波」が「桑」の意と考えられることは勿論、「比賣」も女神でなく「蚕」を表したものである可能性があります。

蚕をヒメコと呼ぶ例は今も全国的に見られるのみならず、古くは『播磨国風土記』飾磨郡伊和里の日女道丘の記事にもその用例が見られることから、まさに当社は「蚕」「桑」の守護神であったと考えることが可能です。

一方で当社のすぐ東側に隣接して四世紀末~五世紀初頭に築造された墳丘長約200mの前方後円墳「島の山古墳」があります。河合町川合にある「川合大塚山古墳」と共に大和川水系の要所にあり、古墳時代から重要な地とされたことが窺えます。

 

当社の御祭神は「久波御魂神」「天八千々姫命」の二柱ですが諸説あります。

「久波御魂神」は記紀はじめ各史料に見えない神ながら、その名や当社の社名、御神体等から推して蚕の餌である桑の葉を神格化したもので、養蚕や絹織物の守護神として信仰されたものでしょう。

「天八千々姫命」もこれまた記紀などの史料に見えない神ですが、天棚機姫神と同神であるとも、その孫であるともされているようで、「千代神社」(田原本町千代の「春日神社」の境内社、または田原本町大安寺の「森市神社」の境内社)の御祭神にもなっています。

いずれも養蚕に深い関わりのある神となっているものの、『延喜式』神名帳には二座とは記されていないため本来は一柱のみが祀られていたことでしょう。

 

当社は江戸時代以前は「子守社」と呼ばれていました。桑の葉を御神体としていたこと以外に養蚕や織物に関する信仰があったかは不明ですが、無理に解釈すれば「子守」とは「蚕守」の意であるとすることもできなくはないでしょう。

とはいえ真相は不明で、中世には窯業が盛んであったとも(伝説的に)言われており、江戸時代には養蚕・織物はほぼ廃れていたと思われます。

当社の本殿は江戸時代初期に「春日大社」の摂社「若宮神社」から移築されたものと伝えられており、いわゆる「春日移し」の一例です。近世初期の春日造の貴重な一例として奈良県指定有形文化財となっています。

 

境内の様子

比売久波神社

比売久波神社

当社は唐院地区の集落の北側、「島の山古墳」のすぐ西側に鎮座しています。

境内の南方180mほどのところに一の鳥居が南向きに建っています。

 

比売久波神社

比売久波神社

一の鳥居から道を進むと玉垣で囲まれた境内があり、その南東側の入口に二の鳥居が南向きに建っています。

 

二の鳥居をくぐった様子。比較的広い境内で、奥側右(北西側)に社殿が南向きに並んでいます。

 

当社の手水舎は拝殿前の左側(西側)に配置されています。動線上やや遠回りになるものの、導水施設が無い(右側に隔てて蛇口とホースはある)ためそもそも手水として機能していなさそうです。

 

比売久波神社

比売久波神社

拝殿は本瓦葺・平入切妻造に妻入入母屋造の向拝が付いたもの。向拝および拝所は中央よりやや右側にずらして設置されています。

 

拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製の比較的新しいもの。

 

拝殿後方、塀に囲まれて檜皮葺・一間社春日造の本殿が建っています。

本殿は朱が施されており、装飾の少ない簡素なものながら、江戸時代初期に「春日大社」摂社の「若宮神社」から移したものと言われ、奈良県指定有形文化財となっています。

 

2019年参拝時は、本社本殿の左右それぞれに境内社が南向きに一社ずつ鎮座している一方で、基壇はそれぞれ二基ずつありました。

そして拝殿裏側に境内社の社殿が移設されており、どうも工事中だったようです。

手持ちの資料では、本社本殿の左側に「事代主神社」(御祭神「事代主命」)、「春日神社」(御祭神「天児屋根命」)が、本社本殿の右側に「熊野神社」(御祭神「伊弉冉命」)、「大国主神社」(御祭神「大物主命」)が鎮座するとあるものの、どれがどれなのかはわかりません。

2019年参拝時の状況では、いずれも銅板葺の朱塗りの春日見世棚造で、移設されている二社はやや小さなものとなっていました。

なお、案内板には「春日神社の西には校倉づくりの宝庫があり」とあるものの、2019年現在それらしきものは見当たりません。

また本殿と拝殿の間に島の山古墳の後円部頂上から持ち出されたという石があるとされていますが未確認。

 

当社境内の西側にはかつて当社の神宮寺だった真言宗豊山派の寺院「箕輪寺」があり、現在はその礎石が残っています。

本堂は永享八年(1436年)に再建された寄棟造の建築で、神仏分離後も残されて小学校の校舎として使用されたと言われています。

本堂は近年まで残っていたようですが、老朽化が進み倒壊してしまったようです。もし残っていたら建立年代からしても国重文くらいにはなっていたことでしょう。

なお本尊の平安時代中期の作とされる十一面観音菩薩立像はじめ安置されていた仏像は別の寺院に遷されています。

案内板「町指定文化財(本尊・脇侍等) 箕輪寺(みのわでら / キリンジ)」

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町指定文化財(本尊・脇侍等) 箕輪寺(みのわでら / キリンジ)

式内社・比売久波神社の神宮寺として、円通大師の創建された寺院で、宗派は真言宗豊山派である。比売久波神社の祭祀は箕輪寺の僧侶が関わっていた。

永享2年(1430)に筒井氏と箸尾氏の合戦により堂や本尊が消失し、永享8年(1436)に賢春法師によって本堂再建を果たし、本尊として十一面観音菩薩立像を三輪・平等寺の僧・定範より譲り受けて安置した。

近年無住となり、本堂の老朽化が進み、ついに倒壊し、本尊の十一面観音立像、脇侍の四天王像、地蔵菩薩像は別の場所に安置されている。

この本堂は、かっては唐院における教育の中心で、明治7年(1874)から、、明治4年(1881)まで唐院小学校の校舎として仕様された。

旧箕輪寺 十一面観音菩薩立像 平安時代 中期 10C後半

この像は鳥羽天皇(1107-1123)の念持佛で ⇒ 八条院 ⇒ 八条左大臣 ⇒ 笠置・解脱上人 ⇒ 弘誓坊 ⇒ 三輪・平等持・定範 ⇒ 箕輪寺と伝えられた。

川西町 唐院自治会 川西町教育委員会

案内板「箕輪寺跡」

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箕輪寺跡

真言宗豊山派の寺院で円通大士によって開かれたといわれている。

永享二(一四三〇)年に本堂や本尊が焼失したが、再建した本堂に木造十一面観音立像が本尊として迎えられた。本堂がなくなった現在、別の寺院で他の像と共に保管されている。

川西町教育委員会

 

当社境内の様子。境内にはクスノキの巨木などもあり、鬱蒼というほどでないにせよ森に囲まれています。

 

当社境内のすぐ東側に隣接して「島の山古墳」があります。

墳丘長約200mの、四世紀末~五世紀初頭に築造されたと推定される前方後円墳です。

馬見古墳群の北群を構成する一つとされ、鏡や玉類をはじめとする非常に多くの出土品は国指定重要文化財となっています。

河合町川合にある「川合大塚山古墳」と共に馬見古墳群北群の主要な古墳で、共に大和川水系の川が数多く合流する要地に立地しています。

当社と直接関係するとは言えないにしても、古墳時代には当地が重要な地であると見做されていたことを示すものでしょう。

案内板「国史跡 島の山古墳」

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国史跡 島の山古墳

全長 200メートル、墳形 前方後円墳
後円部径 113メートル、同高 174メートル
前方部幅 103メートル、同高 11メートル
周濠長 265メートル、同幅 175メートル
築造時期 4世紀末~5世紀初

島の山古墳は大和盆地中央部に築造された巨大古墳で、発掘調査で前方部頂に粘土槨を検出し、棺外から約2500の玉類の他に、緑色凝灰岩製腕輪(車輪石80、鍬形石21、石釧32)等が、棺内から碧玉製合子、鏡、管玉、丸玉、首飾り等が出土しました。墳丘の調査では、円筒埴輪列が出土し三段築成が確認できた他に、形象埴輪(家、靫、盾、蓋)等が出土し、くびれ部東西から造り出しの跡を検出しました。

川西町教育委員会

 

タマヨリ姫
大きな古墳のすぐ側にあるんだ!関係あるのかな?
どうかしらね。関係あるとまでは言えないにしても、ここが重要な地だったとは言えるんじゃないかしら。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「比売久波神社」

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比売久波神社

この神社の久波御魂神は、アマハチ姫を祭神としています。本殿は、春日大社摂社若宮神社本殿を移建したものと伝えられており、装飾の少ない簡素なもので形式・手法は春日大社本殿と一致しており江戸時代初期とされています。

本殿の右には、大国主神社の境内社があります、左には、蛭子神社と春日神社の社殿が並び、さらに春日神社の西には校倉造りの宝庫があり興味を引きます。本殿は、奈良県指定文化財となっています。

1993(平成5)年4月 川西町教育委員会

案内板「比売久波神社 / 箕輪寺跡 / 箕輪焼伝説」

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比売久波神社

祭神

本殿 久波御魂神・天八千千姫
境内社 熊野神社(祭神・伊弉冉命)、大国主神社(祭神・大物主命)、事代主神社(祭神・事代主命)、春日神社(祭神・天児屋根命)

本殿

春日造(昭和42(1967)年県指定文化財指定)江戸前期

唐院に鎮座する比売久波神社は10世紀前期に成立した延喜式神名帳に名を連ねる式内社で、古い由緒を持ちます。本殿は檜皮葺の春日造(キリぐま造の妻側の片側に庇を設置する造りで、奈良県内に非常に多い建築様式)で、奈良市春日大社の摂社若宮神社本殿を江戸時代に移したものとされ、奈良県指定文化財に指定されています。本殿と拝殿の間には大きな石が置かれていますが、これは東にあります島の山古墳の後円部頂上から持ち出されたものです。

箕輪寺跡

宗派

真言宗豊山派

本尊

木造十一面観音立像(平成17(2005)年町指定文化財指定)平安末期

比売久波神社の神宮寺で、同社境内の西側に本堂が建てられていましたが、現在は跡を残すのみです。地元では「きりんじ」と呼ばれ親しまれていました。円通大士によって平安時代中期頃に開かれたといわれています。永享2(1430)年11月に筒井氏と箸尾氏の合戦によって本堂と本尊が焼失して、その後再建しています。本尊の木造十一面観音立像は再建後の本尊で、元は鳥羽上皇の所有だったものがこの地に伝わったという伝承があります。

箕輪焼伝説

箕輪寺周辺では「箕輪焼」という陶器が焼かれていたという伝説があります。そのことについて興味深い資料が遠く離れた愛知県瀬戸市で幕末に製作された碑文にあります。

それによると大和国の道蔭(どういん)村出身の加藤四郎左衛門景正(加藤景正)という人物が、鎌倉時代に曹洞宗を開いた僧である道元とともに宗へ渡り陶器の製作法を学び、帰国後は全国各地を廻り今の愛知県瀬戸市に陶器に適した土を見つけ、この地で陶器の製作を初めたとあります。加藤景正は伝説上の人物として現時点では実在を確認出来ませんが、瀬戸市では「藤四郎」と呼ばれ、陶祖として崇敬を受けています。

「道蔭」は唐院の地名の由来とされています。若き日の景正が箕輪寺の近くで陶器を焼いていたのかもしれません。

平成30(2018)年3月 川西町教育委員会

案内板「川西町 町・村の歴史 大字 唐院」

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川西町 町・村の歴史 大字 唐院

大字の唐院の概要

唐院は、島の山古墳の築造でもわかるように、町内でも一番早く開拓され、集落としても古いところである。唐院は、道陰の庄を音読みしたものであるとも言い、また陶工 加藤藤四郎に因む陶院に由来するとも言われている。

また、唐の国より渡来してきた人びとによって、土着したことから唐院と呼ばれるようになったのではないかという様々な説が伝わっている。

唐院集落の東方には比賣久波神社がある。祭神は、比賣御魂神・天八千千姫神。社名は、蚕桑を意味し、桑葉を神体としたと伝え、大字結崎の糸井神社と関連する神社とも考えられる。一間社春日造の現本殿(県文化財)は、春日大社の旧社殿で、江戸初期のものと推定されている。

CN35 周年事業 大和磯城ライオンズクラブ 贈 平成23年10月9日 LNo.55 唐院自治会

 

地図

奈良県磯城郡川西町唐院

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