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八咫烏神社 (奈良県宇陀市榛原高塚)

社号 八咫烏神社
読み やたがらす
通称
旧呼称 をとごろす 等
鎮座地 奈良県宇陀市榛原高塚
旧国郡 大和国宇陀郡高塚村
御祭神 建角身命
社格 式内社、旧県社
例祭 11月3日

 

八咫烏神社の概要

奈良県宇陀市榛原高塚に鎮座する式内社です。

当社は式内社では珍しく創建年代が明確で、『続日本紀』慶雲二年(705年)九月九日条に「大倭国宇太郡に八咫烏社を置きこれを祭る」とあり、この「八咫烏社」が当社とされています。

八咫烏」とは神武東遷において熊野の山中で進めないでいた神武天皇一行を導いた烏の神で、『日本書紀』には次のように記されています。

『日本書紀』(大意)

神武天皇の一行は山の中を進もうとするも進むことができずにいた。その夜、夢で天照大神が天皇に「私は今、八咫烏を遣わすのでこれを先達とせよ」と告げ、八咫烏が空から飛んできた。天皇は「この烏が来たことは祥夢に叶っている。我が皇祖、天照大神が私を助けようとしてくださっているのだ」と喜んだ。

(中略)

天皇が磯城彦を攻めようとしたとき、まず兄磯城へ八咫烏を遣わして帰順を求めたところ「天津神が来たと聞いて私は憤慨しているのになぜこの烏はこんなに悪く鳴くのか」と弓をつがえて追い払った。次に八咫烏は弟磯城へ帰順を求めたところ「私は天津神が来たと聞いて朝夕も恐れ畏まっていた。烏がこんなに鳴くのは良いことだ」としてもてなした。

(中略)

神武天皇の即位後、功績のあった者に恩賞を与えた。八咫烏も恩賞を受け、その子孫は葛野主殿県主である。

『日本書紀』において八咫烏の登場する場面は以上の三カ所です。整理すると、

  1. 神武天皇が山中で迷っている時に天照大神から八咫烏が派遣され、一行を導いた。
  2. 兄磯城・弟磯城へ帰順を求めるために八咫烏が派遣され、弟磯城の帰順に成功した。
  3. 天皇即位後、八咫烏の功績が認められ、その子孫は「葛野主殿県主」である。

となります。

『古事記』でも同様の記述が記されていますが、1.においては天照大神でなく高木神から派遣された点、2.においては派遣された先は兄磯城・弟磯城でなく兄宇迦斯・弟宇迦斯であり鏑矢で追い返された点が異なっており、3.については省略されています。

このような描写から八咫烏は導きの神として信仰されています。

空を飛翔する鳥はあの世をこの世を往来すると信じられ、あの世との交信を担う神秘的な存在とも見做されてきました(例えば「厳島神社」の神事「御鳥喰式」などにその信仰が窺われる)。八咫烏の原初はこのような素朴な「神の使い」とされた神聖な鳥だったのでしょう。

一方で一般に八咫烏は三本足であると広く信じられていますが、上記のように記紀においては一切そのような描写は無く、八咫烏が三本足であるとする初見は平安時代中期に成立した『倭名類聚抄』です。

中国の伝説の烏であり、太陽に棲むという「三足烏」が八咫烏と後世に習合したものと考えられています。

 

また上の3.について、八咫烏の子孫は「葛野主殿県主」であるとありますが、『新撰姓氏録』山城国神別に賀茂県主同祖(神魂命の孫、武津之身命の後)であるという「鴨県主」が登載されており、そこに次のような記述があります。

『新撰姓氏録』(大意)

神武天皇が中洲(大和の平野部)へ向かいたいと思っていたが、山中は険しく道を進めないでいた。ここにおいて神魂命の孫、鴨建津之身命は大烏に化身して飛翔して導き、遂に中洲に達した。天皇はその功績を喜び特に厚い褒賞を与えた。天八咫烏の号はここより始まった。

このように天神系賀茂氏(「賀茂別雷神社」「賀茂御祖神社」などを奉斎した賀茂氏)の祖である「鴨建津之身命(賀茂建角身命)」は八咫烏と同一であるとされています。(現在の当社の御祭神も「建角身命」)

『日本書紀』に八咫烏の子孫だとある葛野主殿県主とは山城国葛野郡(現在の京都府京都市西部)一帯を支配した豪族と考えられ、この天神賀茂氏の祖か、もしくは同族と考えられます。

ただ、賀茂建角身命の娘の娘にあたるヒメタタライスケヨリヒメが神武天皇の后となっているので世代に矛盾があるとして、実際には賀茂建角身命の孫である生玉兄日子命こそが八咫烏であるとする説もあります。

神話色の強い時代なので整合性を求めてもあまり意味はありませんが、八咫烏が天神賀茂氏と強く結びついていることは確かでしょう。

 

一方、当社について見てみると、慶雲二年(705年)になって当社が創建された事情については『続日本紀』に何ら記載が無く詳らかでありません。

神武東遷において熊野から宇陀へと案内した八咫烏の功績を顕彰し後世に伝えるために創建したのかもしれません。

江戸時代にはかなり荒廃しており、「をとごろす」と称して石造の宝殿がわずかに残るのみでしたが、江戸時代後期の文政年間に「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の神官が祖神たる賀茂建角身命(八咫烏)を祀る神社として注目し、現在見るような立派な社殿が造営され再興されました。

その後は毎年の例祭において賀茂御祖神社から奉幣使が送られるなど、両社は密接な関係にありましたが、氏子の負担が大きかったことや賀茂御祖神社の末社となることへの懸念から明治年間以降は賀茂御祖神社からの奉幣使は中止になったようです。

 

現在の当社は導きの神である八咫烏を祀る由緒ある神社として広く知られています。

加えて八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークであり、サッカー日本代表のエンブレムにもなっているため、当社はサッカーの守護神としても信仰されており、江戸時代に荒廃していたのとは対照的に現在は多くの参詣者の訪れる神社となっています。

 

境内の様子

八咫烏神社

当社の一の鳥居は境内の東方100mほど、芳野川沿いの道に面して東向きに建っています。

 

八咫烏神社

一の鳥居から道を進み、小さな川(祓川)を渡ると境内入口です。

石段を上り、ちょっとした広場の後方にさらに石段が続き、その上に二の鳥居が東向きに建っています。

 

二の鳥居をくぐって左側(南側)に手水舎が建っています。

 

八咫烏神社

八咫烏神社

二の鳥居の先はかなり広い整備された空間となっており、その右側(北側)に社殿が南向きに並んでいます。

拝殿は銅板葺・平入入母屋造で、基壇の上に建ち、床の無い土間となっており、壁の無い開放的な構造です。

 

拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製でかなり個性的な顔立ちです。

 

拝殿後方は丘となっており、斜面上に本殿へ続く石段が伸びています。

 

この石段上の丘の上に朱塗りの中門および瑞垣が設けられ、その後方に銅板葺・一間社春日造の本殿が建っています。千木は内削ぎ。

江戸時代には当社は荒廃しており石造の宝殿があったのみといい、今も本殿の横にその宝殿が置かれているようです(ただし見えない)。

 

八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークであり、サッカー日本代表のエンブレムとなっていることから、当社はサッカーの守護神としても信仰されています。これに因んで境内にはサッカーボールを載せた三本足の烏の石像があります。

 

当社境内から東方を見ると鳥居越しに「都賀那岐神社」の鎮座する伊那佐山が見えます。当地はこの伊那佐山の遥拝所だったとも伝えられているようです。

 

伊那佐山の山頂から当社を眺めた様子。

江戸時代には石造の宝殿があるだけだったという当社も今では広い境内を持つ立派な神社となった様子がわかります。

 

タマヨリ姫
あの八咫烏を祀ってるの!?サッカーで有名な三本足のカラスだよね!?
『古事記』や『日本書紀』には三本足だったとは書いてないけれどね。後世に中国の三足烏と習合したと考えられているわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「八咫烏神社」

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八咫烏神社

武角身命(建角身命)を祭神とする八咫烏神社は、『続日本紀』に慶運2年(705年)9月、八咫烏の社を大倭国宇太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間・1818~1830)には、これまで石神殿であったものが春日造りの社殿となりました。その後、紀元二千六百年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。

『古事記』、『日本書紀』によると、神武天皇が熊野から大和へ入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。

八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです。

八咫烏神社
榛原町教育委員会

 

地図

奈良県宇陀市榛原高塚

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