社号 | 都賀那岐神社 |
読み | つがなぎ/つがなき |
通称 | |
旧呼称 | 貴布根社、嶽大明神(?) 等 |
鎮座地 | 奈良県宇陀市榛原山路 |
旧国郡 | 大和国宇陀郡山路村 |
御祭神 | 都賀那伎神 |
社格 | 式内社 |
例祭 | 10月20日 |
都賀那岐神社の概要
奈良県宇陀市榛原山路に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒は詳らかでありません。
「都賀那伎(つがなぎ/つがなき)」の社名については、握り棒を意味する「ツカナギ」に因むとする説や、渡来系の人物である阿知使主の子「都加使主」に因むとする説がありますが、はっきりしません。
当社は標高637mの「伊那佐山」の山頂に鎮座しており、江戸時代以前には「貴布根社」と称していたことから、山頂の神域にて祈雨の神として信仰されていたようです。
伊那佐山は記紀の神武東征の終盤、神武天皇の軍がエシキを撃った際に歌われた久米歌に登場します。
『古事記』『日本書紀』
楯並めて 伊那佐の山の 木の間よも い行き守らひ 戦へば 吾はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜養が伴 今助けに来ね
(意訳:伊那佐の山の木の間を通って行きながら敵の様子を見守って戦っていたら我々は腹が減ってしまった。鵜飼部の者たちよ、今すぐに助けてくれ。)
このように伊那佐山の名は非常に古くからあるようで、神武東征の舞台ともなっています。
一方で台風のときなどに吹く南東寄りの強風を「イナサ」と呼ぶ例が太平洋側を中心に全国的に分布しており、この伊那佐山もこれに関係しているかもしれません。
地形を見ると伊那佐山の南方で芳野川沿いに北西~南東方向にやや開けており、風の通り道となっていると考えられないこともないでしょうが、この付近において風に関する民俗事例を管見では確認できていないので何とも言えないところです。
なお、当地の地名は「山路(やまじ)」ですが、四国の東予地方では南寄りの強風のことを「ヤマジ」と呼びます。ただこれは南の四国山地から吹く風といった意味と考えられ、単なる偶然と考えるべきでしょう。
とはいえもし伊那佐山が風に関係し、さらに水神を祀っていたとすると、或いは祈雨というよりは、秋の台風に伴う大雨・暴風を止めてより良い作物の実りを願う祈晴の神社だったとも考えられるかもしれません。
また一説に高塚地区に鎮座する「八咫烏神社」は伊那佐山の遥拝所だったとも言われ、また或いは元々は伊那佐山に「八咫烏神社」が鎮座していたとの説もあるようです。
いずれにしても伊那佐山は宇陀地方ではよく目立つ山であり、神の宿る神体山として古くから神聖視されてきたのでしょう。
境内の様子
当社は「伊那佐山」の山頂に鎮座しています。
伊那佐山は芳野川の右岸側で一際目立つ山で、いくつかの登山道があります。
今回は山路地区から登ることにします。写真のように比布停留所の東方の芳野川沿いに登山道への看板が立っているのでこれに従い進んでいきます。
山路地区の伊那佐山への登山道入口。当社の社号標が建っています。
上の写真のように山頂への道標が立っていますが、これには注意が必要です!
というのも上の写真の道標は右側に突き出していることから右側へ進むものだと判断しそうになりますが、よくよく見ると左向きの矢印(←)が辛うじて見えます。従ってここは左へ進むのが正解です。
これは「デザインの敗北」というべきもので、矢印がかすれていることもあり登山者・参拝者を混乱させる悪質なものとすら言えます。
登山道にはこのような道標が他にもあり、登山者・参拝者は道標のデザインに囚われず表記をよくよく注意しなければなりません。
願わくば混乱を招かないよう道標を改善してほしいところです。
誤解を招きがちな道標をしっかり見て正規の経路を辿るとこのような山道を進んでいくことになります。
登山道の途中には何らかの講の石碑(明和七年(1770年)建立)や山神の石碑などがあり、古くから参詣の道であったことが窺えます。
さらに登山道には丁石も建っています。
丁石とは山頂まで一丁(約109m)毎に設けられる石碑のことで、山頂まであとどの程度の距離があるかを示したものです。写真の丁石は十二丁とあり、山頂まで1.3kmほどあることになります。
さらに登山道を進んでいくと当社の鳥居が建っています。影の向きからして西向きでしょう。
手前の石碑は「右 やたき 左 嶽大明神」と刻まれています。手持ちの資料には見えませんが嶽大明神は当社の江戸時代以前の呼称の一つでしょう。
鳥居をくぐってからもしばらく山道が続きます。
ここをひたすら進んでいくとようやく奥に当社の社殿が見えてきます。
奥にある石段を上るといよいよ伊那佐山の山頂です。
石段下の左側(南西側)には大きな手水鉢が配置されています。ただし導水設備はありません。
石段を上ると平らな空間となっており、この奥の山頂にあたるところに当社の社殿が南東向きに建っています。
当社に拝殿は無く、中央に拝所(中門)が建ち、瑞垣で本殿を囲っています。
中門前の右側(北東側)にも小さな手水鉢が配置されています。
瑞垣に囲われて建つ本殿は銅板葺の神明造。千木は内削ぎですが鰹木は奇数の五本となっています。
本社本殿の右側(北東側)には屋根型の石造物があり、正面には薄い金属製の鳥居が複数枚置かれていました。
これが何なのかは不明。境内社だとしたら極めて特異な形式です。
当社境内からは南西方向に景色が開けており、手前の芳野川沿いの谷底平野、奥の宇陀川沿いの宇陀松山の町並み、さらに背後の音羽山といった山々が見渡せます。
ここからは高塚地区に鎮座する「八咫烏神社」もよく見えます。
真偽は不明ながら、一説に八咫烏神社神社は伊那佐山への遥拝所とも、また一説に八咫烏神社は伊那佐山に鎮座していたとも言われているようです。
道を戻り、当社の南側には「天狗岩」と呼ばれるニ、三ほどの岩石があります。
ここからは南方の景色を見渡すことができ、芳野川沿いの古市場などの町並み、さらに背後には遥か紀伊山地の山々までも望むことが可能。
宇陀地域が起伏のなだらかな低い山々で構成された隆起準平原の地形であることもよくわかります。
地図
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