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畝尾坐健土安神社 (奈良県橿原市下八釣町)

社号畝尾坐健土安神社
読みうねおにますたけはにやす
通称
旧呼称天照太神 等
鎮座地奈良県橿原市下八釣町
旧国郡大和国十市郡下八釣村
御祭神健土安比売命、天児屋根命
社格式内社、旧村社
例祭9月28日

 

畝尾坐健土安神社の概要

奈良県橿原市下八釣町に鎮座する神社です。南浦町に鎮座する「天香山神社」、戒外町に鎮座する「春日神社」と共に式内社「畝尾坐健土安神社」の論社となっています。

式内社「畝尾坐健土安神社」は『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。

 

当社に関連のある説話として、神武東征の段にあたる『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年九月の条に次のような話が記されています。

『日本書紀』(大意)

(吉野から大和へ入ろうとした)天皇が菟田高倉山から辺りを見渡すと賊軍が要害の地を塞いでいた。

この夜の夢に天神の教えとして「天香山社の中の土を取り天平瓮(あめのひらか / 祭祀用の皿の土器)を八十枚と厳瓮(いつへ / 祭祀用の瓶の土器)を造り、天神地祇を祀れ。そして厳呪詛(いつのかしり / 身を清めて行う呪詛)をせよ。さすれば賊軍は降伏するであろう」とお告げを受けた。

天皇はこれに従い、敵の目を欺くために椎根津彦と弟猾に蓑を着せて老人の格好をさせて天香山の土を取ってこさせ、この土で多くの平瓮、天手抉(あめのたくじり / 祭祀用の土器の一つ)、厳瓮を造り、丹生川上で天神地祇を祀った。

そしてその翌年にあたる神武天皇即位前紀己未年二月の条において、上記の天香山で土を取って土器を造り神を祀ったことに言及し、このお陰で平定を成し遂げられたとしてその土を取ったところを「埴安」と名付けたと記しています。

このように天香山の土は大和を平定する上で必要な霊的な力を持ったものであることが示唆されています。

 

さらにこれに加えて、『日本書紀』崇神天皇十年九月二十七日の条において次のような話も記されています。

『日本書紀』(大意)

倭迹迹日百襲姫命は聡明であった。彼女が天皇に言うには、「武埴安彦が反乱を企てている。その妻である吾田媛が密かにやって来て、倭の香山の土をとって頒巾(ひれ / 肩にかける布であるらしい)に包んで『これは倭国の物実(ものしろ)である』と言って帰ったので、これで有事を知ることができた。速やかに備えなくては必ず遅れを取る」と。

ここでは天香山の土を「倭国の物実」であるとしています。つまり大和国の国魂の宿る霊的なものであることを示しています。

この「倭国の物実」たる天香山の土で神具を造り神を祀れば、その霊力・呪力により賊軍を降伏させ、大和国を支配できるものと見做されていたのでしょう。

式内社「畝尾坐健土安神社」はこの天香山の土を祭祀の対象としたものと推定されます。

なお、神武天皇即位前紀に見える「天香山社」が式内社「畝尾坐健土安神社」を指すとする説もありますが、神社成立以前どころか神話的要素の強い時代の記事であるため、ここに言う「社」とは神社でなく「杜=森」の意とする説も有力です。

 

式内社「畝尾坐健土安神社」の初見は天平二年(730年)の『大倭国正税帳』で、「畝尾神戸 稲86束 租4束 合90束 4束祭神に用う 残86束」と記されています。

室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)には式内社「畝尾坐健土安神社」について「神戸郷香山の西の山尾にあり」としています。

そして江戸時代中期の地誌『大和志』は式内社「畝尾坐健土安神社」を当時「天照太神」と呼ばれていた当社に比定しています。

式内社を当社に比定した根拠は明らかでありませんが、当社のすぐ南に隣接して木之本町に「畝尾都多本神社」が鎮座することから「畝尾」繋がりで比定したのかもしれません。

一方、大正三年(1914年)に刊行の地誌『大和志料』は、式内社「天香山坐櫛真命神社」は天香久山の西麓、南浦町に鎮座する現在の「天香山神社」とされているが、式内社「天香山坐櫛真命神社」は山頂に鎮座にあるべきだろうとして、「天香山神社」こそが式内社「畝尾坐健土安神社」ではないかとしています。

確かに天香山の土を祭祀の対象とした神社であるならば式内社「畝尾坐健土安神社」を天香久山の北西麓にある「天香山神社」とするのが妥当であるように感じられます。

しかし前述の「畝尾都多本神社」の式内社比定は異論が無いことから「畝尾」とは当地付近を指したことは間違いなく、当社を式内社とすることにも妥当性があります。

また当社と天香久山との間に「赤埴山」と呼ばれる小さな丘があり、この土が土器の製造に適することから、『日本書紀』に土を取ったところという「埴安」とはこの丘のことであるとする説もあります。

このように式内社「畝尾坐健土安神社」の比定はいずれであってもおかしくなく、どちらがそうであるかを確定できないのが実情です。

 

現在の当社の御祭神は「健土安比売命」「天児屋根命」の二柱です。上述のように江戸時代には天照大神を祀っていましたが現在は祀っていないようです。

天児屋根命はかつての境内社を本社に合祀したものと思われますが、健土安比売命は恐らく式内社認定にあたり新たに祀られたものでしょう。

現在では天香久山の土を殊更に神聖視する風習は無いと思わる一方、どういうわけか大阪府大阪市住吉区住吉に鎮座する「住吉大社」では(天香久山でなく)畝傍山で祭祀に用いる土を採取する「埴使神事」が行われています。

いつの頃か天香久山の土に霊力・呪力を認める信仰が畝傍山に取って代わられたのか、謎は深まるばかりです。(詳しくは「畝火山口神社」の記事を参照)

 

境内の様子

当社は下八釣町の集落の南東端に鎮座しています。

集落の奥まったところこんもりとした森があり、そこが当社の境内となります。

 

境内の北西側が入口となっています。社地と道の間には垣や鳥居などで区切られているわけでなく、道から直接境内へ入る感じになっています。

 

境内入口の左側(東側)に手水舎があり、そこに手水鉢と六角形の井戸がありますが、何故かこれとは別に西側に隣接して竹の樋の設けられた手水鉢が配置されています。

 

畝尾坐健土安神社

畝尾坐健土安神社

入口から南へ進むと左側(東側)に鳥居と社殿が西向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。

 

拝殿後方の基壇上は手前側が玉垣、後ろ側が塀になっており、これに囲まれて銅板葺・一間社流造の本殿が建っています。

拝殿と本殿の間には妻入切妻造の屋根が設けられており、幣殿のようなものとなっています。

 

本社社殿の左側(北側)に「庚申」「愛宕山」と刻まれた石碑がそれぞれ建っています。

 

本社社殿の向かい側(西側)に建つ建物。恐らく社務所でしょう。

L字型になっており、神社の規模の割には大きな社務所となっています。

 

下八釣町付近から天香久山を見た様子。当社はこの山の土を祀ったものとされています。

なお写真に記録していませんが、この右側(西側)に小さな丘があり、これを「赤埴山」とも言うようで、一説に天香久山から土を取った場所「埴安」はそちらであるともされています。

 

当社の鎮座する下八釣町の町並み。

古い家屋が多く、電柱さえ無ければさながら江戸時代に来たかのような趣ある一帯となっています。

 

タマ姫
「畝尾」ってくらいだから畝傍山かと思ったけど、天香久山の方なんだね!
「畝尾」はウネビじゃなくてウネオと読むのよ。天香久山の山の尾がうねうねと伸びてる様子を意味するとも言われてるみたいね。
トヨ姫

 

由緒

案内板

畝尾坐健土安神社

 

地図

奈良県橿原市下八釣町

 

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