社号 | 天香山神社 |
読み | あまのかぐやま |
通称 | |
旧呼称 | 北浦神 等 |
鎮座地 | 奈良県橿原市南浦町 |
旧国郡 | 大和国十市郡南浦村 |
御祭神 | 櫛眞命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月10日、12日 |
天香山神社の概要
奈良県橿原市南浦町、天香久山の北西麓に鎮座する神社です。同じく南浦町、天香久山の山頂に鎮座する「國常立神社」と共に式内社「天香山坐櫛真命神社」の論社となっています。
式内社「天香山坐櫛真命神社」は『延喜式』神名帳に大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
また式内社「畝尾坐健土安神社」を当社に比定する説もあります。(詳しくは「畝尾坐健土安神社」の記事を参照)
式内社「天香山坐櫛真命神社」について、その社名から天香久山に「櫛真命」なる神を祀ったことは明らかです。
また『延喜式』神名帳の京中坐神に左京二條坐神社に祀られる二座の内の一座として「久慈真智命神」が記されており、その註に「本社は大和国十市郡に坐す天香山坐櫛真命神」とする旨が記されています。
また天平二年(730年)の『大倭国大税帳』に「久志麻知 神田一町 種稲20束」、また大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』にも「櫛麻知乃命神 一戸」と見えます。
これらのことから「櫛真命」の神名はクシマチとするのが正しいと考えられます。
ただしこの神は記紀に登場せず、京中に勧請されていることから重要な神であることは窺えるものの、いかなる神であるかは不明です。
また『延喜式』神名帳の式内社「天香山坐櫛真命神社」の註には「元名大麻等乃知神」とあり、元はオオマラノチもしくはオオマトノチと称していたようです。
この神にしても記紀に登場せずいかなる神であるかははっきりしませんが、クシマチおよびオオマラノチ/オオマトノチは占いの神であると古くから解釈されています。
クシマチにおけるマチとは亀卜・鹿卜(亀の甲羅・鹿の肩胛骨を焼いてその割れ目で結果を判断する占い)において予め縦横に掘っておく溝を指す、もしくは焼いて生じた割れ目のことを指すとも言われています。
さらに踏み込んでマチとは「兆し」「前兆」を意味したのであろうとも考えられ(『大和志料』など)、いずれにしても将来を予兆する占いに関する語であると考えられています。
クシとは「霊妙」「神妙」などといった意で、マチの語頭に付くことで霊妙なる力を以て占いを司る神を表したものであると考えられます。
天香久山が特に占いに関する山であることは記紀の天岩戸の段にも描写されています。『古事記』には次のように記しています。
『古事記』(大意)
(天照大神が天岩屋戸に籠ったとき)八百万の神々が天の安河原に集まり、…(略)…アメノコヤネ命とフトダマ命を呼んで天香久山の真男鹿の肩骨を抜き取り、天香久山の天のハハカ(=ウワミズザクラ)の樹皮を取って占いを行い、天香久山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根ごと掘り起こして上の枝に玉を付け、中の枝に八咫鏡を付け、下の枝に白和幣(しろにぎて)・青和幣(あをにぎて)を付け、…(略)…アメノウズメ命が天香久山の天の日陰蔓を襷にかけ、天の真折蔓を鬘として、天香久山の笹の葉を束ねて手に持ち、…(略)
『日本書紀』においても凡そ同じ内容が記されています。
このように天照大神が天岩戸に籠った際に行った祭儀において、天香久山にある種々のものが神具として用いられています。
特にアメノコヤネとフトダマが鹿卜を行う際に天香久山のウワミズザクラの樹皮で以て(これを焼いて)行ったことは、クシマチの神名との関連性からも注目されるものです。
その他、『日本書紀』の神武東征においては天香久山の土で以て祭祀用の土器を造り神を祀った結果、賊軍の平定を成し遂げたと記されており、やはり天香久山が古くから特別な霊力を持った山として認識されていたことが窺えます。(詳しくは「畝尾坐健土安神社」の記事を参照)
また天香久山の南麓に鎮座する「天岩戸神社」では古く亀卜が行われたことを示唆しており、やはり天香久山が特に占いに関して神威を発揮する山であるとされていたようです。
このようなまさに「占いの山」たる天香久山において、占いを司る神を祀ったのが式内社「天香山坐櫛真命神社」だったと考えられます。
この式内社「天香山坐櫛真命神社」は上述のように当社とする説、「國常立神社」とする説があります。
室町時代の文書である『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)は式内社「天香山坐櫛真命神社」について、「神戸郷香山村山頂にあり」としています。式内社「天香山坐櫛真命神社」を「國常立神社」に比定する説はこれを受けたものとなります。
一方、江戸時代中期の地誌『大和志』は「北浦神」と呼ばれていた当社に比定しています。
当社は天香久山を遥拝する北西麓にあり、本殿背後には磐座とも考えられる巨岩群があることから古くから天香久山への祭祀が行われたと考えられそうです。ただし山頂は当社から見て南にあるのに対し、社殿の向き及び巨岩群は西向き、つまり東を向いて遥拝することになるため若干の疑念は拭えません。
とはいえ、天香久山の山頂に鎮座する「國常立神社」、北西麓に鎮座する当社、いずれが式内社「天香山坐櫛真命神社」であってもおかしくなく、神秘の山「天香久山」の信仰を担う一社であることは間違いないでしょう。
境内の様子
当社は南浦町の北側、天香久山の北西麓に鎮座しています。
南浦町北側の集落の南端に西向きの一の鳥居が建っており、境内入口となっています。
一の鳥居をくぐった様子。山の麓だけあって樹木の鬱蒼とした境内となっています。
参道を進んでいくと途中右側(北側)に「波波迦の木」が植えられています。波波迦(ハハカ)とはウワミズザクラのことで、記紀の天岩戸の段において鹿卜を行う際に天香久山のハハカを用いたことが記されています。
石碑
天香山 波波迦の木
波波迦の木の左側(東側)に隣接して手水舎が建てられています。
さらに参道を進むと奥側はやや土地が高くなっており、石段の上に二の鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐって正面奥に社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造の割拝殿。通路は中央でなく右側に寄っています。
拝殿手前側には岩石が埋め込まれており、注連縄で囲まれています。
如何なる謂れがあるのかは不明。
割拝殿の通路の様子。背面側の出口に賽銭箱と鈴の尾が設置されています。
割拝殿の通路をくぐり抜けると正面奥に石垣があり、中央の石段上に中門が、そしてその左右に玉垣が設けられています。
石段下の左右に配置されている狛犬。砂岩製です。
石段を昇り中門をくぐると、中央に本殿が、その左右に境内社が建っています。
本殿は銅板葺の一間社春日造。比較的新しい建築です。
本社本殿の左側(北側)に境内社が西向きに鎮座。社名・祭神を示すものはありませんが、手持ちの資料から「春日社」と思われます。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
本社本殿の右側(南側)にも境内社が西向きに建っています。こちらも社名・祭神を示すものはありませんが、資料から「八幡社」と思われます。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
本社本殿の背後には複数の岩石があり、注連縄が張られています。
注連縄があることから磐座的な祭祀の対象のように思われるものの詳細不明。天香久山の神の降臨する磐座であるのか、遥拝のための祭祀場だったものか、それとも単なる土留であるのか、はっきりしません。
しかし天香久山には他にも「天岩戸神社」の岩石(亀岩屋)の他、「月の誕生石」「蛇つなぎ石」などいくつかの曰くある岩石があり、この岩石も古くからの信仰の対象であったとしてもおかしくないでしょう。
天香久山を西側から見た様子。
同じく大和三山である畝傍山や耳成山と比べれば山容は地味ですが、記紀に特別な霊力のある山として幾度も描写されており、古くから極めて重要な信仰の山だったことは間違いありません。
由緒
案内板
拝殿扁額について
地図
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