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甘樫坐神社 (奈良県高市郡明日香村豊浦)

社号甘樫坐神社
読みあまかしにます
通称
旧呼称推古天皇、六所大明神 等
鎮座地奈良県高市郡明日香村豊浦
旧国郡大和国高市郡豊浦村
御祭神推古天皇
社格式内社、旧村社
例祭9月18日

 

甘樫坐神社の概要

奈良県高市郡明日香村豊浦に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社とあり、古くは有力な神社だったようです。

室町時代の文書である『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、当社は武内宿禰による創建であるとしています。

当社の由緒については詳らかでありませんが、当地は社名の通り飛鳥地域の中心的な地にある「甘樫丘」の側に鎮座しており、この丘については『日本書紀』允恭天皇九月二十八日の条に言及があります。

『日本書紀』(大意)

天皇が詔してこのように言われた。「朝廷に仕える官僚らや諸の国造らは皆それぞれに『帝の後裔である』『天孫降臨に付き従ったものである』と言う。しかし天地開闢以来長い年月を重ね、一つの氏から多くの氏姓が生まれ本当のことが知りがたい。そこで諸の氏姓の人たちは沐浴斎戒し“盟神探湯(くかたち)”をすべきである。」

そこで味橿丘(アマカシノオカ)の辞禍戸崎(コトノマガエノサキ)に盟神探湯の釜を置き、諸人を行かせて「真実ならば損なわれないが、偽りならば必ず害があるだろう」と言われた。

諸人はそれぞれ木綿の襷をかけて盟神探湯を行い、真実の者は何もなく、偽っていた者は皆傷ついた。そこで偽っていた者は驚愕して退き、進むことができなかった。これ以降、氏姓は自ら定まり、偽る者は無くなった。

「盟神探湯(くかたち)」とは釜に湯を沸かして手を入れさせ、罪なき者は火傷せず、罪ある者は火傷を負うとする古代に行われた呪術的な裁判です。

『日本書紀』の記事によれば允恭天皇の御代に氏姓を仮冒する者が多かったので盟神探湯を行うことでこれを正したとあり、これが行われた場所が「味橿丘(アマカシノオカ)の辞禍戸崎(コトノマガエノサキ)」であるとしています。

辞禍戸崎とは言葉の誤りを正す岬の意と考えられ、当社背後にあたる甘樫丘から北西に伸びた尾根がその地ではないかと言われています。

とすると辞禍戸崎にあたる地に鎮座する当社は古代において盟神探湯の審判を行う神を祀ったことが始めだったのではとも考えられます。

ただし允恭天皇は実在性が疑われており、その時代に当地で盟神探湯が行われたのが史実であると断定することはできません。ただ、当地が正邪を明らかにし誤りを正す裁判を行うべき神聖な場であるとし、これに関する神が祀られたことは十分に考えられるでしょう。

また上述のように『五郡神社記』では武内宿禰の創建としていますが、武内宿禰もまた『日本書紀』応神天皇九年の条において讒言され、盟神探湯を行い身の潔白が証明されたとあり、これに因んで盟神探湯にゆかりある当地と結びつけられた可能性があります。

 

一方、現在の当社の御祭神は「推古天皇」で、「八幡宮」「春日大明神」「天照皇大神」「八咫烏神」「住吉大明神」「熊野権現」を配祀しています。これは宝暦八年(1758年)の棟札に基づくものです。

推古天皇については、推古天皇の当初の皇居であった豊浦宮が当地(豊浦)付近にあったとされることから後世に祭神に組み込まれたものと思われます。江戸時代前期の『大和名所記』には推古天皇を祀るとあり、この頃には既に推古天皇を祀っていたと認識されていたようです。

一方で『五郡神社記』は御祭神を「八十禍津日命」「大禍津日命」「神直毘命」「大直毘命」の四柱としています。これらの神々は記紀において黄泉国から戻ったイザナギが禊をした際に生まれた神々で、災厄・罪・穢れを司る神、およびそれを直す神であると考えられます。

正邪を明らかにして誤りを正す裁判の地に祀る神としては確かに相応しく、『延喜式』神名帳にも四座とあることから、この四柱が元々の神であった可能性は高いと思われます。

ただこの四柱は抽象性が高く一般にあまり馴染みが無いため、いつしか忘れられて著名な人物や神々が祀られていったのでしょう。

盟神探湯の行われた地であることも忘れられたと思われ、かつて大社だった当社も現在は非常に小さな神社となっています。

 

境内の様子

甘樫坐神社

当社は甘樫丘から北西に伸びる丘の東麓、豊浦地区の集落の中に鎮座しています。

当社境内は狭く、ちょっとした石垣と低木に囲われているだけの境内となっており、当社には鳥居すらありません。

一見すると神社に見えないため、初見では見過ごす可能性もあるので参拝の際はよくよく注意しておくことをお勧めします。

 

境内入口の石段を上って左側(北側)に手水鉢があります。導水施設はありません。

 

甘樫坐神社

石段を上ってすぐ正面奥に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺の平入切妻造に妻入切妻造の向拝が付いたもの。

 

拝殿後方の基壇上に鳥居が建ち、玉垣に囲われて三宇の本殿が建っています。

これらの本殿は上から見ると「品」の字状に配置されており、中央奥の本殿は銅板葺の一間社春日造、手前両側の本殿は銅板葺の一間社流造となっています。

中央奥の本殿に推古天皇が祀られていると思われるものの、左右の本殿にいずれの神が祀られているのかは不明。

 

本社拝殿の右側(北側)にはこのような巨大な板状の岩石があり、「立石」と呼ばれています。立石は塀に囲われて注連縄も掛けられています。

飛鳥地域には奇抜な石造物が数多く所在しており、これもその一つに数えられています。横口式石槨の部品である「鬼の俎」「鬼の雪隠」や噴水装置だった「須弥山石」など用途が明らかなものもある一方で、用途や製作意図が不明なものも多く、この「立石」も用途や目的ははっきりしません。

現在ではこの「立石」の前で『日本書紀』の記述に因んだ盟神探湯神事(実質的には湯立て神事であり、戦後になって行われるようになったもの)が行われています。

 

当社に属するかは不明ですが、当社への参拝道の起点にあたる当社東方60mほどの地に「難波池」と呼ばれる矩形の池があり、中央に島状に基壇が設けられ神社が南向きに鎮座しています。

社名・祭神は不明。社殿は銅板葺の一間社流造。

伝承では廃仏派の物部尾輿が仏像を投げ入れた「難波の堀江」がここであるとも伝えられています。

一般に「難波の堀江」とは仁徳天皇が摂津国の難波に掘削した水路(運河)で、現在の大阪市を流れる大川にあたり、物部尾輿が仏像を投げ入れたのはこちらだとする説が有力です。

一方で当地は蘇我稲目が百済から献上された仏像を祀った「向原の家」があったとされていることから、物部尾輿は仏像を投げ入れたのはすぐ近隣のこちらであるともされているようです。

案内板

難波池の由来

 

タマ姫
この場所で裁判のために沸騰したお湯に手を突っ込んだの?こわっ…!
盟神探湯(くかたち)っていうのよ。古い時代はこういう呪術的な方法が用いられていたみたいね。
トヨ姫

 

由緒

案内板

「盟神探湯」

 

地図

奈良県高市郡明日香村豊浦

 

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