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宗我坐宗我都比古神社 (奈良県橿原市曽我町)

社号宗我坐宗我都比古神社
読みそがにますそがつひこ / そがにいますそがつひこ
通称
旧呼称入鹿宮 等
鎮座地奈良県橿原市曽我町
旧国郡大和国高市郡曽我村
御祭神曾我都比古神、曾我都比売神
社格式内社、旧村社
例祭10月6日

 

宗我坐宗我都比古神社の概要

奈良県橿原市曽我町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。

武内宿禰を祖とし、六世紀から七世紀にかけて非常に巨大な勢力を持った蘇我氏が当地で祖を祀ったのが当社だとされていますが、その由緒は様々な伝承があります。

室町時代の文書である『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、

  • 当社の御祭神は「武内宿禰」と「石川宿禰」(蘇我石川 / 武内宿禰の第三子で蘇我氏の始祖)の二柱
  • 推古天皇の御代に石川宿禰の五世孫の蘇我馬子が神殿を当地に造営して奉祀した

とあります。

一方で当社の社伝では、持統天皇が蘇我氏一門の滅亡を憐み、蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟 / 乙巳の変では中大兄皇子に加担)の次男である徳永内供なる人物に蘇我氏の一氏族である紀氏を継がせ、内供の子の永末が祖神を祀るための土地を賜って社殿を造営したとあります。

持統天皇の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘(蘇我遠智娘)であるため、持統天皇が当社の創建に関して何らかの働きかけがあったことは可能性として考えられます。

ただ、徳永内供・永末なる人物が史料に見えない(実際の蘇我倉山田石川麻呂の次男は蘇我法師)のみならず、乙巳の変の10年後に蘇我倉山田石川麻呂およびその子女(蘇我法師含む)は讒言により謀反を疑われ自死しており、蘇我倉山田石川麻呂の孫が持統天皇の働きかけで創建したとするのは矛盾が発生することになります。

仮にこの頃の創建とすると、倉山田石川麻呂の甥にあたる蘇我安麻呂の子孫・石川氏(祖たる蘇我石川の諱を姓にするのは畏れ多いとして後に宗岳氏に改姓)が当社の奉斎に関わっていた可能性が考えられます。

 

上の『五郡神社記』と当社社伝は、当社の創建を蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子の時代と見るか、乙巳の変後の蘇我氏衰退後の時代と見るかの点が異なると言えます。

そもそも蘇我氏は著名な氏族でありながら本貫がはっきりしておらず、当地が蘇我氏の本貫である確証もありません。

蘇我氏の本貫の候補地は、

  1. 河内国石川郡(大阪府富田林市付近の石川沿い一帯)とする説
  2. 大和国高市郡(当地付近)とする説
  3. 大和国葛上郡(奈良県御所市付近)とする説

の三説があり、特に1.は『三代実録』元慶元年(877年)十二月二十七日条に、蘇我氏の始祖たる宗(蘇)我石川は河内国石川の”別業”に生まれたので石川を名としたと記されているため特に有力です。

ただし、ここにある「別業」とは本拠地とは別の地を意味するとする反論もあり、この記事を以て河内国石川郡が本貫だとまでは断定できません。

これに対して平安時代の文書『紀氏家牒』には蘇我石川の家は大和国高市郡蘇我里にあるとあり、2.の当地が本貫であるとする傍証となっています。

3.の説は省略しますが、少なくとも伝承としては蘇我氏の始祖たる蘇我石川の時代に1.と2.の両方が支配下にあったことになり、いずれが本貫であると決めることはできません。

ただ当地は地名を「ソガ」と称し、本貫であるかはともかく少なくとも古くからの蘇我氏の拠点の一つだったらしいことを見れば、蘇我馬子の時代に当地で神社という形式ではなくとも祖神を祀る神廟や神籬などがあり、その後継が当社であるとしてもおかしくはないでしょう。

 

現在の当社の御祭神は「曾我都比古神」「曾我都比売神」の二柱です。社名から「宗我都比古」なる神を祀っていたことは確実で、『延喜式』神名帳に二座とあることからもう一座を対となる女神としたものでしょう。

蘇我氏の祖となる人物を抽象的な名である「宗我都比古」として祀ったものと思われ、本来は具体的な人物を祀っていたとも考えられます。その場合は『五郡神社記』のように「武内宿禰」「石川宿禰」だったとすることも可能性として考えられそうです。

また江戸時代中期の地誌『大和志』には当社を「入鹿宮」と称すとあり、当時は蘇我入鹿を祀ると認識されていたとも推察されますが、同時期に刊行された『神名帳考証』ではこれを誤りであるとしています。

当社の南東1.5kmほどの小綱町に「入鹿神社」があり、こちらと混同した可能性もあるかもしれません。

いずれにせよ当社は一時代を築いた氏族の氏神であり、現在は小さな神社となっているものの、古代史における蘇我氏の活躍を想えば壮大な歴史を想起せずにいられません。

 

境内の様子

宗我坐宗我都比古神社

当社は曽我地区の北西端、近鉄真菅駅のすぐ西側に鎮座しています。

道路に面して東向きの鳥居が建ち、境内入口となっています。

 

鳥居をくぐって右側(北側)に手水舎が建っています。

 

鳥居をくぐった様子。参道の先に提灯台?(あるいは幕か何かを吊るすためのもの?)のような門型の構造物が設けられており、その奥は広い空間となっています。

当社境内は同じ曽我町に鎮座する「天高市神社」と非常によく似ており、連続で参拝するとどちらがどちらであったか記憶があやふやになるほどです。

ただ、曽我町の旧集落に近いのは「天高市神社」の方で、当社は明治頃の地図によれば境内周辺は一面が田圃だったようです。

 

門型構造物の手前側の左右に狛犬が配置されています。砂岩製で古めかしさの感じられるもの。

 

宗我坐宗我都比古神社

門型構造物をくぐると正面奥に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺・平入切妻造に檜皮葺・妻入切妻造の向拝の付いたもの。向拝部分のみが檜皮葺となっているのは珍しい例です。

向拝が檜皮葺である点を除けば拝殿も「天高市神社」と全く瓜二つです。

 

拝殿前に配置されている狛犬。目や口などに彩色が施されており、花崗岩製の新しいものです。

 

拝殿後方に中門・透塀が設けられ、塀に囲まれて本殿が建っています。

本殿はよく見えませんが、檜皮葺の一間社流造に巨大な千鳥破風の付いたもののようです。

 

本社拝殿前の右側(北側)に「八大夫稲荷神社」が南向きに建っています。

社殿は銅板葺の流造(の覆屋か?)で、左右に段違いで屋根が伸び、それぞれ境内社(後述)の覆屋としても機能しているという非常に変わった形。

社殿前には一基の石造鳥居と八基の朱鳥居が建ち並んでおり、稲荷神社らしい出で立ちとなっています。

 

八大夫稲荷神社の左側(西側)に「戎神社」が、右側(東側)に「八坂神社」が南向きに鎮座しています。上述のように八大夫稲荷神社の社殿が覆屋となっています。

社殿は戎神社が銅板葺の春日見世棚造、八坂神社が鉄板葺の春日見世棚造。同じ春日見世棚造とはいえど、前者は屋根に反りがあるのに対し後者はまっすぐで二段に折れているなど全く異なる構造となっています。

 

本社拝殿と八大夫稲荷神社の間には玉垣で囲われて低木が植えられています。

 

境内南西側には「大神輿収納殿」(観音開きの建築)および太鼓台一基とその他絵馬や神具等を納める「格納庫」(シャッター式の建築)が建っています。

 

タマヨリ姫
蘇我氏って蘇我馬子とか蘇我入鹿とか古い時代にむっちゃ権力あった人達だよね!ここが本拠地だったの?
蘇我氏の本貫はいろいろ説があって正直よくわからないわ。でもここを本貫とする説はかなり有力よ。
トヨタマ姫

 

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