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東大谷日女命神社 (奈良県橿原市畝傍町)

社号東大谷日女命神社
読みひがしおおたにひめみこと
通称
旧呼称熊野権現 等
鎮座地奈良県橿原市畝傍町
旧国郡大和国高市郡畝傍村
御祭神姫蹈鞴五十鈴姫命
社格式内社
例祭10月8日

 

東大谷日女命神社の概要

奈良県橿原市畝傍町に鎮座する神社です。桜井市山田に鎮座する同名の「東大谷日女命神社」と共に式内社「東大谷日女命神社」の論社となっています。

式内社「東大谷日女命神社」について、室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば次のように記しています。

  • 当時の社号は「東姫神社」。
  • 久米郷今井村宮森にある。
  • 忌部氏の記録によれば、祭神は「朝日豊明姫命」であり、大倭盛次は稚日女尊の隠号であるという。

ここにいう久米郷今井村とは現在の橿原市今井町と考えられ、どういうわけか現在の論社二社とも全く異なる地となっています。

現在今井町の集落の南西に「春日神社」が鎮座していますが、これを式内社「東大谷日女命神社」とする説は現在のところありません。

また忌部氏の記録(いかなる資料かは不明)によれば祭神は「朝日豊明姫命」であるといい、この神は『三代実録』貞観十一年(869年)九月二十八日の条に見える国史現在社の神で、現在は天理市新泉町に鎮座する「大和神社」の境内社となっています。上記に見える「大倭盛次」は不明ですが、恐らく大和神社の神官ではないかと思われます。

 

一方、式内社「東大谷日女命神社」の祭神は「東大谷日女命」なる神であったことは社名から確実ですが、この神は記紀に登場せず詳細不明です。

「東」とはヤマトと読み、方角ではないとする説が有力です。単純に大和国における谷に鎮座する女神の意とも取れる一方、阿知使主を祖とする渡来系氏族「東漢氏」が奉斎したものとする説もあります。

 

江戸時代以降の多くの資料(『大和志』『大和名所図会』『神社覈録』など)では式内社「東大谷日女命神社」を桜井市山田の神社に比定しているのに対して、江戸時代中期に度会延経が著した『神名帳考証』では畝傍山西麓の大谷村にあったとしています。

この大谷村とは現在の橿原市大谷町で、現在は「畝火山口神社」が鎮座しています。

「畝火山口神社」は大正以前には畝傍山の山頂に鎮座しており、さらにそれ以前は畝傍山の西麓に鎮座していたと伝えられています。昭和十五年(1940年)の紀元2600年祭の一環で、橿原神宮や神武天皇を見下すのは神威をけがすとして現在地に遷座され、図らずも旧地、もしくは旧地に近い場所へ戻る形となりました。

『神名帳考証』の記述に従えば、当時の鎮座地は異なっていたとはいえ、現在の「畝火山口神社」を指していたものだった可能性が高いと考えられます。地名も「大谷」であり、式内社「東大谷日女命神社」の比定の根拠としても説得力あるものです。

しかしながら現在はどういうわけか畝傍山の反対側、東麓に鎮座する当社が式内社「東大谷日女命神社」の論社となっています。

当社は江戸時代には「熊野権現」と呼ばれ、「伊弉册尊」を祀っていました。

当社が式内社に定められたのは明治20年頃といい、畝傍山の山頂に鎮座していた神社が先に式内社「畝火山口神社」に定められ、消去法で当社が式内社「東大谷日女命神社」とされたものであることが推測されるものの、具体的な経緯は不詳です。

「東」が方角ならば畝傍山の東麓であることに意味がありましょうが、上記のように「東」は「ヤマト」と読み、方角を示すものでないとも考えられるので畝傍山の東麓である必要もありません。

故に、式内社「東大谷日女命神社」は畝傍山の西麓に鎮座していた(そして現在も鎮座している)現在の「畝火山口神社」であり、式内社「畝火山口坐神社」は藤原京などの皇居に近い畝傍山東麓の当社である、とする説も考えられます。

つまり「東大谷日女命神社」と「畝火山口坐神社」の比定が逆になっている可能性があるのです。

少なくとも当社を式内社とする説は江戸時代には管見では見当たらず、明治年間の恣意的な選定が見え隠れします。

現在の御祭神は「姫蹈鞴五十鈴姫命」です。明治年間に一時的に御祭神を「神功皇后」とした後に現在の御祭神としたようですが、これもどういう経緯で祀られたのかはっきりしません。

このように式内社の比定に大きな疑問はあるものの、大和三山の一つである畝傍山の麓にある神社であり、古い歴史のある神社である可能性は十分考えられます。

 

境内の様子

東大谷日女命神社 橿原市 畝傍町

東大谷日女命神社 橿原市 畝傍町

当社は畝傍山の東麓の中腹に鎮座しています。

橿原神宮の北方から畝傍山の山頂へ至る登山道の途中に当社の参道が分岐しており、この地点に鳥居が南東向きに建っています。

 

鳥居をくぐった様子。畝傍山登山道はお手軽なハイキングコースとなっており多くの人が行き交いますが、こちらは訪れる人も少なくひっそりとしています。

 

参道の脇には「庚申」と刻まれた石碑があり、妻入切妻造の小さなお堂に納められています。

 

東大谷日女命神社

さらに進むと石段が伸びています。

 

石段を上って左側(南側)に扇形に穴の穿たれた手水鉢が配置されています。導水設備はありません。

 

東大谷日女命神社 橿原市 畝傍町

石段を上って正面奥に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺・平入切妻造の割拝殿。

 

拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製の端正なもの。

 

拝殿奥に本殿が建っていますが、高い塀に囲われており外からは全く見えず、割拝殿の通路奥の格子から窺えるのみとなっています。

基壇上に玉垣が設けられ、その奥に銅板葺・一間社春日造の本殿が建っているのが見えます。

また見えにくいものの本殿の左右にも境内社が一社ずつ鎮座しており、左側が「春日社」、右側が「豊受神社」となっています。

 

当社の鎮座する畝傍山を西方から眺めた様子。馬の背のような山容は奈良盆地南部ではよく目立ち、大和三山の一つとして存在感を放っています。

奈良盆地南部に都を置いていた時代はこの山は特に気を掛けるべき存在だったことが偲ばれます。

 

 

タマヨリ姫
畝傍山の東側にあるから「東大谷日女」って社名なのかな?
ここでいう「東」とは方角でなく「ヤマト」の意って説も有力だからあまり関係無いかもしれないわね。
トヨタマ姫

 

由緒

貼紙「東大谷日女命神社」

+ 開く

東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)

【社格】

無各社

【住所】

奈良県橿原市畝傍町六十九
(大和国高市郡白橿村大字畝火字唐院)

当社の創造は不明であるが徳川時代に於いては、氏神 熊野神社として明治十一年頃まで熊野権現をお祀りされていた。その頃の祭神は、伊弉册尊だった。

明治二十年頃から、当社を式内社・東大谷日女命神社とし、祭神を、神功皇后へ変えたが、その後、姫蹈鞴五十鈴姫命に再度の変更。明治三十五年、社名を東大谷日女命神社に変更した。

【御祭神】

姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)

【社殿構造】

本殿 春日造
相殿 右・豊受神社 左・春日社
(昭和二十三年改築 大工岡田氏)

【拝殿】

桁行五間半、梁行二間

【境内坪数】

四百坪
(昭和五十六年改築大工 桐山氏)
(平成二十二年 外構改修 吉田氏)

【祭日】

例祭十月八日

【氏子】

畝傍・御坊町

参考【奈良縣高市郡神社誌等】

 

地図

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