社号 | 天津石門別神社 |
読み | あまついわとわけ |
通称 | |
旧呼称 | 九頭神社、九頭竜明神 等 |
鎮座地 | 奈良県高市郡高取町越智 |
旧国郡 | 大和国高市郡越智村 |
御祭神 | 天手力男命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月中旬 |
天津石門別神社の概要
奈良県高市郡高取町越智に鎮座する式内社です。
社伝によれば、当社は元暦二年(1185年)に越智氏の祖が平家を滅ぼし、本拠地であるこの越智の地に凱旋した際に九頭神を祀ったのが当社であるとされています。
当地を拠点にした越智氏は伊予の越智氏(「小致命」を祖とする物部系氏族という)と関係があるとする説もあるものの、伝承や家系図などによれば大和国に居住した「源頼親」を祖とする氏族とされています。
斉明天皇陵の「越智崗上陵」などに見られるように「越智」の地名は古く、件の越智氏はこの地名を苗字として名乗ったものでしょう。
当社には本殿が無いのが特徴で、板石で囲った中に植えられた榊を御神体としています。
一方、式内社「天津石門別神社」は江戸時代には所在不明となっており、江戸時代中期の地誌『大和志』には所在未詳とあります。
明治八年(1875年)にどういうわけか当社の御祭神を「天手力男命」とし、式内社「天津石門別神社」とするよう示達があったとされています。
その根拠は全くの不明ですが、現在も式内社「天津石門別神社」は当社とされています。
これに対して室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』(通称『五郡神社記』)によれば、式内社「太玉命神社」(現在の「天太玉命神社」 / 橿原市忌部町に鎮座)の境内東方に西向きの社殿があり、これが式内社「天津石門別神社」であると記しています。
『古事記』によれば天孫降臨の段において天石戸別神はまたの名を櫛石窓神といい、またの名を豊石窓神というとあります。さらに忌部系の史書『古語拾遺』によれば豊石窓命、櫛石窓命は太玉命の子であるとも記しています。
このことから天石戸別神、豊石窓命、櫛石窓命は同じ神で、フトダマの子であり、いずれも忌部氏の神であるとも言え、忌部氏の氏神である式内社「太玉命神社」の境内社として式内社「天津石門別神社」が鎮座していたとするのも全く不思議な事ではありません。
ただ『延喜式』の時代にもこの形態だったかは不明で、当時は別々の神社だったのがいつの頃か天津石門別神社が太玉命神社の境内に遷座したのかもしれません。
少なくとも現在は「天太玉命神社」の境内に式内社「太玉命神社」らしき境内社は現存せず、『五郡神社記』の記述が正しいとしたら廃絶してしまったものと思われます。
境内の様子
当社は越智地区の集落の東方に鎮座。この地は越智氏の居館跡の西にあたるようです。
民家の間の道を通り抜けていった先に鳥居が西向きに建っています。
鳥居をくぐって左側(北側)に手水鉢が配置されています。導水設備はありません。
鳥居をくぐって正面奥に社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造。
拝殿前に配置されている狛犬。砂岩製です。
拝殿後方、ブロック塀に囲まれて銅板葺の隅木入春日造のような建物がありますが、これは本殿ではありません。
これは幣殿にあたる建物で、当社ではこれを「祝詞舎」と呼ぶようです。
当社には本殿がありません。代わりに祝詞舎の後方に石垣があり、この上に板石で四方を囲み、その中に榊が植えられています。
当社ではこの榊が本殿に相当し、御神体となっています。
本社社殿の右奥(南東)に境内社が北西向きに建っています。社名・祭神は不明。
社殿は銅板葺の一間社流造。
本社拝殿前の左側(北側)には「愛宕山大権現」と刻まれた石碑や「庚申」と刻まれた石碑、その他五輪塔等の部材が安置されています。
由緒
案内板
天津石門別神社
地図
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