社号 | 海神社 |
読み | かい |
通称 | |
旧呼称 | 海神大明神、浦上大明神 等 |
鎮座地 | 和歌山県紀の川市神領 |
旧国郡 | 紀伊国那賀郡神領村 |
御祭神 | 豊玉彦命、国津姫命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月第3日曜日 |
式内社
海神社の概要
和歌山県紀の川市神領に鎮座する式内社です。
社伝によれば垂仁天皇の御代に忌部宿禰が神のお告げによって当社を創建したと伝えられており、代々当社の社家を務める山田氏は「忌部氏」の子孫であるとされています。
紀伊国の忌部氏について、式内社では名草郡の「鳴神社」(和歌山市鳴神に鎮座)が一説に忌部氏によって創建されたと考えられています。
また、忌部系の史書『古語拾遺』には名草郡の「御木郷」「麁香郷」に忌部氏の末裔がいるとし、『倭名類聚抄』には紀伊国名草郡に「忌部郷」(和歌山市井辺に比定)が記されているなど、紀伊国に忌部氏が拠点を置いた痕跡は数多く見出すことができます。
ただ、紀伊国の忌部氏は上記のように名草郡忌部郷を拠点としており、やや離れた当地にまで進出していたかは資料が無くはっきりしません。仮にそうだとしても、忌部氏が海神を祀るようになった経緯は不明です。
当社の御祭神は「豊玉彦命」「国津姫命」の二柱です。『延喜式』神名帳には二座とは記されていないため、本来は「豊玉彦命」のみを祀っていたと考えられています。
残る「国津姫命」は『三代実録』仁和元年(885年)十二月二十九日条に見える「浦上國津姫神」とされ、国史現在社です。
『紀伊国神名帳』にも那賀郡の地祇として正二位の「豊海神」が、天神として正五位上の「浦上國津姫大神」が記載されています。
両神は元々は別々の社殿に祀られていたといい、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による紀州攻めにより社殿が焼失し、翌年に仮殿として両神を相殿にして祀ったと伝えられており、それ以来相殿にして祀る体制が続いているようです。
両神は別々の由緒を伝えているため、以下、片方ずつ見ていきます。
「豊玉彦命」の由緒
「豊玉彦命」は「大綿津見神」(『古事記』)、「少童(ワタツミ)命」(『日本書紀』)などとも称し、ワタツミとはまさに海神の意です。
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』によれば当社の「豊玉彦命」について、元々は熊野の「楯ヶ崎」に鎮座していたのを後に遷したと伝えていることを記しています。
この「楯ヶ崎」とは当地から遥か遠く南東約87kmも離れた三重県熊野市甫母町にある海岸の岬です。
この岬は二木島湾の東側で南へ突き出た岬で、花崗斑岩の柱状節理の露頭が見られる迫力ある奇景となっています。
この楯ヶ崎の対岸、三重県熊野市二木島町に「室古神社」が鎮座しており、『紀伊続風土記』はこの神社を「豊玉彦命」の古宮ではないかと推測しています。
ただ、件の楯ヶ崎には「阿古師神社」が鎮座しており、『紀伊続風土記』がこちらでなく敢えて対岸の神社を古宮と推測した理由は不明です。
また当地の地名「神領」について『紀伊続風土記』はこの楯ヶ崎に鎮座していた「豊玉彦命」の神戸が当地だったことに因むと推測していますが、当時の「楯ヶ崎」の神社がそのような大社だったとも思えず、これも俄かに信じがたい話です。
天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の紀州攻めの翌年に当社の社家「山田秀延」が著したという社記『海神系図』には「豊玉彦命」の遷座の様子をもう少し詳細に記しており、それによれば次のように記しています。
- 「豊玉彦命」は(「国津姫命」と共に)熊野の立ヶ崎(楯ヶ崎)に顕れたが、後に「池田荘北大井村」に鎮座した。
- ある夜、山田氏の先祖の信貞に「汝の祖は忌部氏であり憐みの心を持つので我に仕えよ」と夢告があり、山あいの池に神鏡が顕れ、これを祭祀して海神社と号した。
- 当社の一の鳥居は立ヶ崎に、二の鳥居は「中村」に、三の鳥居は境内にある。
「池田荘北大井村」とは当社の南方1.3kmほど、現在の北大井地区であり、北大井地区と南中地区の境界には現在も当社への遥拝所があります(未訪)。二の鳥居があるという「中村」とはこの地なのでしょう。
『海神系図』によれば一旦この地に鎮まった後に現在地へ遷座したようです。
また、神鏡が顕れたという池は当社のすぐ南方にあり、「鏡池」と呼ばれています。
このように「豊玉彦命」が遷座した痕跡は処々に伝わっているものの、そもそも何故遥か遠い太平洋岸の熊野の地から紀ノ川沿いの内陸部への当地へ遷座したのかは全くの不明としか言いようがありません。
最初に楯ヶ崎に海神である「豊玉彦命」を祀ったのは恐らく海を舞台に活躍した海人族だったことが推測されます。しかし熊野に蟠踞した海人族が「陸上がり」したとしても、全く繋がりの見えない当地へ移住したとは到底考えにくく、また違った属性の集団の働きがあったと考える方が自然でしょう。
谷川健一氏の編纂した『日本の神々』では丸山顕徳氏が熊野の広範囲で活躍した修験者の存在があったのではないかと推測しており、参考にすべき意見でしょう。
「国津姫命」の由緒
もう片方の「国津姫命」について、この神は記紀に登場せず、その神格は詳らかでありません。
『海神系図』では「国津姫命」は「豊玉彦命」と共に顕れたとしていますが、『紀伊続風土記』ではまた違った由緒を記しています。
即ち、「国津姫命」は如何なる神であるかは不詳としつつ、牟婁郡太田荘の「浦神村」にこの神がいて、「豊玉彦命」が当地へ遷座する際にこの神も同時に遷ったとしています。ただし、同記は「按ずるに」と推測のニュアンスで記述しており、社伝としてそのように伝えられていたかははっきりしません。
「浦神村」とはこれまた当社から遥か南方約95kmも離れた太平洋沿岸の地で、現在の那智勝浦町浦神です。
この浦神地区には「鹽竈神社」が鎮座しており、『紀伊続風土記』はこの神社について次のように記しています。
- この地に浦神と称する神が鎮座していたものの、那賀郡の神領村(当社)へ遷座した。
- その後も旧地に小祠を建てて浦神社として産土神としていた。
- 後世に鹽釜明神を勧請して産土神とし浦神社を末社とした。
- 浦神の村名はその神名に因むものである。
現在も「鹽竈神社」境内には「浦上神社」が境内社として鎮座し、「浦上国津姫命」を祀っています。
場所は大きく離れているものの、「国津姫命」もまた「豊玉彦命」と同様に遥か遠い熊野の太平洋岸から当地へ遷ってきたようで、現在もその地に「浦上神社」が鎮座していることはある程度の説得力を持った説と言えましょう。
ただ、そうだとしてもやはり「豊玉彦命」と同様、到底関連があるとは思えない当地へ遷座した理由は全く不明です。
一方、江戸時代後期の地誌『紀伊国名所図会』は、「豊玉彦命」については上記と同様の由緒を記しているのに対し、「国津姫命」については全く異なる由緒を示しており、次のように記しています。
- 「浦上国津姫神」は和泉国の海中より顕れた。
- 大木峠を越えて神通畑に暫く鎮座し、後に現在地に遷座した。
大木峠とは現在の泉佐野市大木(「火走神社」が鎮座する)辺りの樫井川沿いの道と思われ、支流の二瀬川をさらに遡って和歌山県へ入ると紀の川市神通となり、ここに暫く鎮まったと伝えています。
「神通(ジンヅウ)」とはまさに「神の通った地」の意であり、この地には「浦上神社」が鎮座し「国津姫命」を祀っています。一説に『三代実録』に見える「浦上國津姫神」は当社の神でなくこの「浦上神社」であるとも言われています。
またこの地は紀伊国でありながら大阪湾に注ぐ樫井川水系であり、紀ノ川水系の地へ出るには峠を越えなければなりません。
このように見ると和泉国の海中、即ち大阪湾から顕れたという「国津姫命」が神通の地に祀られているのもまた説得力のある伝承と言うことができます。
海中に顕れた点から「国津姫命」もまた海神であった可能性が高く、川を遡って山間の地に一旦鎮まったのはこの神を祀っていた海人らが造船に必要な木材を求めた結果と推測することも出来そうです。
ただ、神通に鎮まった「国津姫命」が何故峠を越えて当地に遷座したのかは謎と言うほかありません。
紀ノ川水系にも舟運の技術を生かして海人族が居住していたとも考えられ、彼らに合流した可能性が考えられるかもしれません。また或いはこちらも和泉山脈を拠点に活躍した葛城修験者の働きがあった可能性もあるかもしれません。
このように「国津姫命」が当社に祀られるようになった由緒は二つの伝承があり、いずれもそれなりに説得力を持ったものとなっています。
海神社
上に見た通り、当社の御祭神「豊玉彦命」と「国津姫命」はいずれも遥か遠くから当地へ遷ってきたと伝えられています。
当地へ遷座した理由は全く謎としか言いようが無いものの、16世紀の社記に既にその様子が見えていることや、現在も関係する地に「国津姫命」が祀られていること等から、何らかの史実を反映した可能性は高いように思われます。
両神は当初は別殿で祀られていたとはいえ、長らく同所で祀られていたようで、「海神」を「ウナガミ」と読み、これが「浦上」「浦神」とも似た音韻であるため、両者が混同されることもあったようです。
両神共に海と関係が深いだけにそれも無理からぬことであり、何の因果か別の由緒を持ちながらもこの地で相殿として祀られていることに運命的なものすら感じられます。
遥か遠くの別々の地から旅をしてきた二柱の神は何故この地で合流し鎮まったのか。全く不思議なことであり誠に神秘的な神社であると言えましょう。
境内の様子
当社参道の起点がどこであるかは不明瞭ですが、当社境内の南方100mほどの地に社号標と灯籠が建っています。
この社号標のある辺りの東側に「鏡池」と呼ばれる池があり、社伝ではここに神鏡が顕れてこれを祀り当社を建てたと伝えられています。
この道を進むと奥にこんもりとした森が見え、これが当社の境内となります。ただし入口はこの正面でなく右側(東側)へ寄ったところにあります。
突き当りを右側(東側)へ少し進むと左側(北側)に石段があり、これが境内入口となります。
石段を上ったところに両部鳥居が南向きに建っています。
楓の紅葉が見えますが、訪問したのは4月中旬であり、恐らく最初から赤い葉を付ける品種なのでしょう。
鳥居の手前右側(東側)に手水舎があります。
鳥居をくぐるとコンクリートで舗装された参道が一直線に伸び、その奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に軒唐破風の付いた割拝殿で、床の無い土間になっています。柱に朱が塗られているのがアクセント。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿後方に建つ本殿は銅板葺の一間社春日造で、周囲に裳階の付いた珍しいもの。
裳階は廻廊状になっており、正面には拝殿とを結ぶ屋根付き廊下も設けられています。
境内社等
当記事では右側から境内社を紹介していきます。
本社拝殿の手前右側(東側)に桟瓦葺の平入切妻造の覆屋があり、ここに三社の境内社が西向きに鎮座しています。
この覆屋の三社は左側(北側)から順にそれぞれ「穂高見命」「玉依姫命」「豊玉姫命」を祀っています。
社殿はいずれも板葺の小さな一間社流造。
ここに祀られている神はいずれも当社の御祭神「豊玉彦命(大綿津見神)」の御子神であり海神でもあります。
この三社は当社の御祭神や祭祀に関係する極めて重要な神々を祀る境内社群であると言えることでしょう。
先の三社の右側(南側)に桟瓦葺の流造状の覆屋が西向きに建ち、ここには「天照皇大神」「豊受大神」を祀る小祠が納められています。
続いて本社拝殿の手前左側(西側)へ。
こちらにも桟瓦葺の平入切妻造の覆屋があり、中に三社の境内社が東向きに鎮座しています。
この覆屋に納められている境内社は左側(南側)から順に「幸神社」(妻入切妻造)、「稲荷社」(神棚状の小祠)、「事代主命」(板葺の一間社流造)となっています。
こちらは特に当社御祭神と関わるものではなさそうです。
先の三社の左側(南側)にも桟瓦葺の流造状の覆屋が東向きに建ち、中に「祇園社」の祠が納められています。
当社境内を引きで見た様子。背後の森は鬱蒼としつつも境内は広々としており、実に気持ちのいい境内となっています。
地図