社号 | 日前神宮・國懸神宮 |
読み | ひのくま・くにかかす |
通称 | 日前宮、名草宮 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市秋月 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡秋月村 |
御祭神 | 日前神宮:日前大神 / 國懸神宮:國懸大神 |
社格 | 式内社、旧官幣大社、紀伊国一宮 |
例祭 | 9月26日 |
日前神宮・國懸神宮の概要
和歌山県和歌山市秋月に鎮座する式内社です。同一の境内の左側(西側)に「日前神宮」が、右側(東側)に「國懸神宮」が鎮座し、形式的には両社を合わせて一つの神社とされています。
両社は『延喜式』神名帳では別々に記載され、いずれも名神大社に列せられています。また紀伊国一宮を称した神社の一つで、古くから現在に至るまで非常に有力な神社です。
「日像鏡」と「日矛鏡」
当社の御祭神は「日前神宮」では「日前大神」、「國懸神宮」では「國懸大神」で、その御神体は前者が「日像鏡(ヒガタノカガミ)」、後者が「日矛鏡(ヒボコノカガミ)」と呼ばれる鏡とされています。
これらの鏡は記紀の天岩戸の段で伊勢神宮の「内宮」の御神体である「八咫鏡」を鋳造する前に鋳造されたものとされており、「日前大神」「國懸大神」とはいずれも「天照大神」の別名であるともされています。
この辺りの事情は複数の史書に記されていますが、その仔細は微妙に異なっています。
まず『日本書紀』天石窟の段を見てみると、本文には当社への言及がありませんが、一書①には次のように記しています。
- 石凝姥(イシコリドメ)を職人として天香山の金を採って「日矛」を作った。
- また鹿の皮を剥いで鞴を作って、これを用いて造ったのが紀伊国に鎮座する日前神である。
このように、イシコリドメは「日矛」を作り、これとはまた別に鞴を用いて造った“何か”が当社(日前神宮)の神であると記しているものの、肝心のそれが何であるかは記されていません。
次に忌部系の史書『古語拾遺』の天石窟の段では次のように記しています。
- 思兼神は石凝姥神に天香山の銅を採って「日像之鏡」を鋳させた。
- 石凝姥に鋳させた「日像之鏡」は、最初のものは少し不出来であった。これは紀伊国の日前宮の神である。
- 次に鋳させたものは美麗であった。これは伊勢大神である。
ここで当社(日前神宮)の神が”鏡”であることが初めて明記され、また伊勢神宮の鏡の前に鋳造されたものであることも示されています。
ただ、上記の『日本書紀』一書にある「日矛」との関係が全く不明になっています。
これに対して物部系の史書『先代旧事本紀』の神祇本紀では次のように記しています。
- 石凝姥命を職人として、天の堅石を採らせ、鹿の皮を剥いで鞴を作り、天香山の銅を採って「日矛」を作らせた。
- この時作られた「鏡」(=日矛)は少し不出来であった。これは紀伊国に鎮座する日前神である。
- 石凝姥命の子、天糠戸神に鏡を作らせた。
- この鏡は美麗だったが岩戸に触れて小さな傷が付き、今もそれがある。これが伊勢大神であり、いわゆる八咫鏡である。
ここで「日矛」とは乃ち「鏡」であると示されています。
ただ、上記の『古語拾遺』と照らし合わせると「日像之鏡」=「日矛」となり、現在日前神宮に「日像鏡」を、國懸神宮に「日矛鏡」を別々に祀っていることと矛盾が生じることにもなります。
このように当社の御神体については様々な史料に言及があるものの、その由来には錯綜があり、何とか辻褄を合わせようとした著者の努力の痕跡すら感じられるものとなっています。
矛盾があるとはいえ、現在日前神宮に「日像鏡」を、國懸神宮に「日矛鏡」を祀るとされているのは恐らくこれらの史料の記述に因ったものと推測されています。
なお、『先代旧事本紀』において「日矛」を「鏡」としたことについては否定する説も根強く、江戸時代中期の国学者「本居宣長」はこの日矛とは鏡でなく、アメノウズメが手に持って天岩屋の前で踊った矛であり、日前神宮では鏡を、國懸神宮では矛を祀ったものであろうと唱えています。
当社と王権祭祀
当社の(神社としての)正史における初見は『日本書紀』天武天皇朱鳥元年(686年)七月五日条で、紀伊国の國懸神に飛鳥四社(現在の「飛鳥坐神社」 / 奈良県明日香村飛鳥に鎮座)と住吉大神(現在の「住吉大社」 / 大阪府大阪市住吉区住吉に鎮座)と共に奉幣があったことが記されています。
その後も幾度か奉幣や調の献上の記録があり、いずれも国家的に極めて重要な名だたる神社と並んで記されています。
このことから当社が朝廷にとって極めて重要な神社だったことがわかるものの、何故か当社に対する神階昇叙の記録は全く見えません。
これについては伊勢神宮に祀られる「天照大神」が別格として神階の外であったのと同様、当社もまた「天照大神」を祀るが故に別格扱いだったとする説があります。
当社が朝廷から「天照大神」を祀ると認識されていたかは不明ながら、古くからそれに準じる扱いだったことはいくつかの記録が示しています。
例えば卜部兼方の著した鎌倉時代後期の『釈日本紀』が引く『大倭本紀』(この資料についての詳細は不明)によれば、天孫が天下った際に斎鏡(いみかがみ)三面と子鈴一令を奉じたといい、その註として次のようにあると記しています。
- 鏡の一面は天照大神の御霊代(みたましろ)で、これを天懸大神という。
- 他の一面は天照大神の前御霊(さきみたま)で、これを国懸大神という。
- (この二面は)紀伊国名草宮に鎮座する神である。
- 残る一面と鈴は天皇の御饌(みけ)の神となり大神に奉仕した。これは巻向の穴師の社の大神(現在の「穴師坐兵主神社」 / 奈良県桜井市穴師に鎮座)である。
このように当社に伝わる鏡が天照大神の「御霊代」「前御霊」であるといい、両者にどのような違いがあるかははっきりしないものの、天照大神と同体であることを示すものと思われます。
このような思想が鎌倉時代後期以前には既にあったことが窺える資料となります。
また後述のように当社の旧地である「浜宮」(毛見地区に鎮座)は元伊勢の一つでもあり、『倭姫命世記』に見える「奈久佐浜宮」とされています。
「浜宮」が元伊勢とされたのは後世の伊勢神道の影響下で創案されたものとも考えられるものの、これにより伊勢神宮および天照大神との関係がますます強くなったものと思われます。
当社の鎮座伝承
当社の御神体については上記のように『日本書紀』をはじめとする史料に断片的に見えるものの、当社の鎮座の由緒については触れられていません。
当社に伝わるという社記『日前國懸両大神宮本紀大略』(以下『大略』と表記)によれば、概ね次のように記しています。
- 天孫降臨のとき、紀伊国造の祖である「天道根(アメノミチネ)命」が日像鏡と日矛の神宝を託され、まずは日向の高千穂宮に祀った。
- その後、神武東征の砌、天道根命は再び神宝を託され神武天皇に従ったが、難波に至った際に神宝を祀るに相応しい地を探したところ、紀伊国名草郡の加太浦から木本、毛見郷へと移り、琴浦の海中の岩上に二つの神宝を祀った。
- その後、崇神天皇五十一年、豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)が天照大神の神霊を祀るに相応しい地を求めていた際(いわゆる元伊勢伝承)に名草浜宮に遷り、日前大神・國懸大神も同所に遷った。
- 垂仁天皇十六年に浜宮から万代宮に遷座。これが現在地である。
このように当社の御神体は「日向の高千穂 → 琴浦の海中の岩上 → 浜宮 → 現在地」と遷っていることが示されています。
この内、「(名草)浜宮」とは現在毛見地区に鎮座する神社であり、船尾山が西方の海へ突き出る地の北麓に立地しています。
この神社は元伊勢にもなっており、当社と伊勢神宮の関係性を示唆するものとなっています。
一方、浜宮の前に神宝を祀っていたという地が「琴浦の海中の岩上」です。
琴浦は船尾山の南西の海岸を指すものの、御神体を祀ったという「琴浦の海中の岩上」が具体的にどこであるかははっきりしません。
船尾山の西端(毛見崎)からさらに西方50mほどの沖に「御前岩」と称する岩石があり、或いはこれだったのかもしれません。
「浜宮」が後世に伊勢神道の影響下で組み込まれたものとすれば、当社の祭祀は「琴浦の海中の岩上」におけるものが根源だったとも推定され、当初は王権祭祀とも無縁の神だったとも考えられます。
谷川健一氏の編纂した『日本の神々』において松前健氏は、当社の神は「紀伊名草郡と海部郡の海人たちの奉じるローカルな太陽神だった」のではとし、各地に鎮座するアマテル神・アマテルミタマ神の一つであり、これが紀伊国造によって氏神とされたと推測しています。
当社の奉斎氏族
上記『大略』において当社の御神体を託された「天道根命」とは当社を奉斎した「紀伊国造」の祖で、『先代旧事本紀』天神本紀においてニギハヤヒの降臨の際に随伴した32柱の一柱として見え、国造本紀において天道根命は神皇産霊命の五世孫であり、神武天皇の御代に紀伊国造に定められたことが見えます。
「紀伊国造」は非常に古くから現在の和歌山市一帯を拠点にして勢力を広げた氏族で、当社を奉斎し、律令制により国造が廃止になった後も「出雲大社」の出雲国造と共に「国造」を称し続けました。
一方、武内宿禰の母「影媛」は紀伊国造の出身であったとされ、武内宿禰の子の一人「紀角」は母方の氏を受け継ぎ「紀氏」の祖となっています。
武内宿禰は伝説上の人物とはいえ、紀氏は紀伊国造と関係が深かったようで、紀伊国造の直系が断絶した際には紀氏の人物が紀伊国造を継ぐこともありました。
当社が朝廷から重んじられたのは、この紀氏が朝廷で非常に重用されたことと無関係でなかったのかもしれません。
中世以降の当社
中世以降は紀伊国一宮とされ当社の神威も健在でしたが、往時と比べれば衰微し、「丹生都比売神社」(かつらぎ町上天野に鎮座)や「伊太祁曽神社」(伊太祈曽地区に鎮座)も一宮を称するようになるなど、相対的に当社の地位も低下していきました。
豊臣秀吉の紀州攻めにおいては当社も兵乱を受けて大きく荒廃したといい、江戸時代に入って紀州藩の初代藩主の徳川頼宣によりようやく復興されたと伝えられています。
大正五年(1916年)には「伊太祁曾神社」「竈山神社」(和田地区に鎮座)と共に「三社参り」を行うための参詣鉄道として山東軽便鉄道(現在の和歌山電鐵貴志川線)が開業し、それ以来和歌山における有数の神社として一層の存在感を発揮し、多くの参拝客を集めています。
境内の様子
お知らせ
当社は境内全域が撮影禁止となっているため、境内の様子を紹介することが出来ません。
従って、当記事の「境内の様子」は割愛させて頂きます。
ご了承ください。
地図
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