社号 | 朝椋神社 |
読み | あさくら |
通称 | |
旧呼称 | 鷺ノ森ノ神社、九頭大明神、顕国社 等 |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市鷺ノ森明神丁 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡鷺森 |
御祭神 | 大国主命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月15日 |
式内社
朝椋神社の概要
和歌山県和歌山市鷺ノ森明神丁に鎮座する式内社です。
『神社覈録』の引く当社の社記によれば、大己貴神が五十猛命に会うべく紀伊国へ来たところ、この地に住みたいと思い、この地を「朝暗」と名付け、後に祠を建てて祀ったとしています。
ただ式内社「朝椋神社」は江戸時代には所在不明になっていたといい、このような伝承が古くからあったのかは疑問です。恐らく『古事記』において大穴牟遅が八十神から迫害を受けた際に木の国の大屋毘古(五十猛命と同神とされる)を頼った説話に付会したものでしょう。
とはいえ当社境内には「大國主神前」と刻まれた万治二年(1659年)の灯籠の残骸があることから、この頃には現在と同じ「大国主命」を祀っていたようです。
また同録によれば、当社は古く「朝椋森」「神主森」と称したといい、文禄年間(1593年~1596年)に桑山重晴が和歌山城を「鎮スル」(※註)時、白鷺が城頭に群れを成して集まっていたのを瑞祥とし、当社を守護神として篤く祀ったともしています。
(※文禄年間には既に和歌山城が存在し桑山重晴が城代になっていたので“整備した”等の意か?或いは天正年間の誤りか?)
式内社「朝椋神社」について、延宝年間(1673年~1681年)に紀州藩の調査により「九頭大明神」と呼ばれていた当社に比定されたものの、その根拠ははっきりしません。(『神社覈録』の言うように古くから「朝暗」「朝椋森」と呼ばれていたかは疑問)
江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は、現在の高知県高知市朝倉丙に鎮座する「朝倉神社」の神と同神である「天石帆別命」を祀るのであろうと推測しています。
これは『釈日本紀』が引く『土佐国風土記』逸文に、「土佐郡の朝倉郷にある神の名は「天津羽羽神」で、「天石帆別神」ともいい、「天石門別神」の子である」とする旨の記述があることに因るものでしょう。
さらに『紀伊続風土記』はこの「天石帆別命」は国栖(クズ)の祖であり、後世に国栖と九頭を混同したのであろうとしています。
しかし「天石帆別命」なる神が国栖の祖であるとする史料はありません。国栖とは奈良県の吉野地方に居住していた集団であり、記紀では「イワオシワクノコ(『古事記』:石押分之子 / 『日本書紀』:磐排別之子)」を祖とすると記しています。
当の高知市の「朝倉神社」でも御祭神「天津羽羽神」が国栖の祖であるとする伝承は存在せず、朝倉郷の開拓神であるとしています。
以上の事から、仮に当社の神が高知市の「朝倉神社」と同じであったとしても、国栖の祖であるとするのは「天石帆別命」と「イワオシワクノコ」を混同したものであり誤りと見るべきでしょう。
一方で当社の旧称の「九頭」とは大国主命の「国主」の意とする説があり、古くから同命を祀っていること、当社に水神的な信仰が特に見られない等のことから、こちらの方が妥当のように思われます。
参考までに、他にアサクラを名乗る式内社では京都府宇治市大久保町北ノ山に鎮座する「旦椋神社」があるものの、こちらも如何なる氏族が奉斎したかは詳らかでありません。
或いは「旦椋神社」の記事でも推測したように式内社「朝椋神社」も「椋」は「倉」の意で、朝廷の管理した屯倉、また屯倉で管理された稲の霊などの守護神だったのかもしれません。
一方、当社の御祭神を「天石門別安国玉主命」とする説があり、これは『古屋家家譜』によるもので近年有力視されつつあります。
『古屋家家譜』とは山梨県笛吹市一宮町一宮に鎮座する「浅間神社」の社家を務める古屋家(大伴氏の後裔であるという)の系図であり、1979年に初めて公開されたものです。
『古屋家家譜』は改変の痕跡もあるものの古い系譜を伝えるものとして研究者の間では高く評価されており、記紀などの記録に載っていない情報も多く記載されています。
『古屋家家譜』は高皇産霊尊から始まる大伴氏の系図を記しており、尊属側のいくつかの神もしくは人物には祀られている神社等が尻付として記されています。
この中で高皇産霊尊の四代孫に「天石門別安国玉主命」が記されており、尻付には「一名 大国栖玉命」「一名 大刀辛雄命」「妻神 八倉比売命」「紀伊国名草郡朝椋神社・同国同郡九頭神社等是也」とあります。
つまり式内社「朝椋神社」の祭神は大伴氏の祖の一柱「天石門別安国玉主命」であるとはっきり記されているのです。
もしこれが正しければ式内社「朝椋神社」は大伴氏が奉斎し祖を祀ったことになりましょう。
なお上記の『土佐国風土記』逸文と照らし合わせてみると、高知市の「朝倉神社」の神は「天石門別神」の子とあり、「天石門別安国玉主命」と共通する神名となっています。
また『古屋家家譜』には「天石門別安国玉主命」の妻神として「八倉比売命」が見え、これは阿波国名方郡の式内社「天石門別八倉比賣神社」(論社は徳島県徳島市国府町矢野の「八倉比賣神社」はじめ三社ある)と同神でしょう。ここでも「天石門別」が付いているのが興味深い点です。
ただ『古屋家家譜』に見える「九頭神社」がいずれの神社であるかははっきりしません。当社も「九頭大明神」と呼ばれていたものの、同様に「九頭」を名乗る神社は多数あるため当社である確証はありません。
『古屋家家譜』には「朝椋神社」の他にも「刺田比古神社」(鳴神地区に鎮座)、「鳴神社」(鷺ノ森明神丁に鎮座)、「香都知神社」(「鳴神社」境内社)と名草郡内の四社の式内社で大伴氏の祖を祀るとしており、もしそうであるならば名草郡に居住していたであろう大伴氏がいかに影響力を持っていたかを物語るものとなりましょう。
『紀伊続風土記』によれば当社にはクスノキの巨樹があり、白鷺が常に群集していたとあるものの、戦時中に空襲などの被害に遭い、現在は「鷺ノ森」と言うにはやや寂しいものとなっています。
境内の様子
当社は南海和歌山市駅の東方500mほどの住宅地に鎮座しています。
境内西側に入口があり、鳥居が西向きに建っています。
一の鳥居からコンクリート敷の参道が伸び、その先に二の鳥居が西向きに建っています。
参道は二の鳥居からは石畳へと変わります。
二の鳥居をくぐってすぐ左側(北側)に手水舎が建っています。
手水舎を越えて左側(北側)へ曲がるとその先に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入切妻造に向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製の比較的新しいものです。
拝殿後方に建つ本殿は銅板葺の一間社流造。
本社拝殿の左脇(西側)に「奉献石檠一基 大國主神前 万治己亥八月十五日」と刻まれた石柱があります。
石檠とは石灯籠のことで、万治己亥は1659年にあたります。この頃には現在と同じ「大国主命」が祀られていたようです。
本社拝殿の右側(東側)に「子守勝手社」が南向きに鎮座。御祭神は「天之水分神」「国之水分神」。
社殿は銅板葺の一間社流造。
本社社殿の手前左側(南西側)、二の鳥居の南側に「神明神社」が東向きに鎮座。御祭神は「天照大御神」「豊受大御神」。
社殿は銅板葺の一間社流造。
由緒
案内板
朝椋神社
地図