社号 | 志磨神社 |
読み | しま |
通称 | |
旧呼称 | 九頭明神 等 |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市中之島 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡中野島村 |
御祭神 | 中津島姫命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月15日 |
志磨神社の概要
和歌山県和歌山市中之島に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳には名神大社とあり、古くは有力な神社だったようです。
式内社「志磨神社」は、園部地区の「伊達神社」、和田地区の「静火神社」と共に古くから「紀三所社」と称して祀られてきました。
この「紀三所社」については永承三年(1048年)の記録にも見えることから、かなり古くから称されていたことがわかります。
「紀三所社」はスサノオの御子神である「イタケル」「オオヤツヒメ」「ツマツヒメ」をそれぞれ祀るからそう称するとする説もあるものの、これは「伊達神社」でイタケルを祀ることを除いて全く当てはまらず、妥当とは言えません。
「イタケル」「オオヤツヒメ」「ツマツヒメ」の三兄妹についてはそれぞれ「伊太祁曽神社」(伊太祈曽地区に鎮座)、「大屋都姫神社」(宇田森地区に鎮座)、「都麻津姫神社」(吉礼地区と平尾地区に鎮座 /「高積神社」(祢宜地区に鎮座)とする説あり)が一体となって祭祀されたことが『続日本紀』からも知られており、「紀三所社」を敢えてこの三兄妹に絡めるのは不適と考えるべきでしょう。
しかしこの「紀三所社」の三社を一組とすることはかなり遡るもので、「住吉大社」(大阪市住吉区住吉に鎮座)に伝わる古文書『住吉大社神代記』(天平三年(731年)の成立とされる)にも記されています。
同記によれば、住吉大社の子神(≒末社)として記される「船玉神」について、紀伊国の紀氏の奉斎する神で、「志麻神」「静火神」「伊達神」の本社であるとしています。また、神功皇后の三韓征伐の際に武内宿禰がこの三神を船に祀ったとも記しています。
このことから「志磨神社」を含む「紀三所社」は古くは「フナダマ(船玉 / 船魂 / 船霊)」つまり「船の神」として信仰されていたことがわかります。
民間信仰ではフナダマとは、主に漁民や廻船業者の間で見られるもので、人形や銅銭、サイコロ、毛髪などを船の柱の下部に祀り、船と航海の安全を司る神とされています。
このフナダマ信仰の原型が住吉大社の子神「船玉神」(現在も「住吉大社」境内社として「船玉社」が鎮座)であり、当社、「伊達神社」、「静火神社」の「紀三所社」の神でもあったのでしょう。
『延喜式』神名帳でもこの三社は共に名神大社であることに加え、連続して記載されていることから、これら三社が一体のものであり、かつ朝廷からも重視される船に関する神社だったことが窺えます。
一方、式内社「志磨神社」の所在は江戸時代には不明となっており、元和年間(1615年~1624年)に当時「九頭明神」と呼ばれていた当社に比定されました。
当地の地名「中之島(中野島)」が紀ノ川河口の中州・三角州の島として形成されたことに因むとされ、その島に神を祀ったのが式内社「志磨神社」と考えられたようです。
しかし江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』によれば、元和年間の中野島村には「西天王社」「東天王社」「八幡宮」「猿田彦社」「祇園社」「九頭明神(当社)」の六社の小さな神社が鎮座していたといい、この中で中野島村の鎮守であり社地も優れた当社が式内社とされたようです。
とすれば式内社「志磨神社」を当社とすることは論拠が弱いと言わざるを得ません。
また伝承の一つとして当社(九頭明神)は元々は東に隣接する新在家村に鎮座していたともいい、また当地も(比較的社地が優れていたらしいとはいえ)民家の間に挟まって境内は広くなく古木も乏しい状況だったようで、当地は古くからの鎮座地ではなさそうです。
やはり紀ノ川河口の中州・三角州であった立地柄、古くから幾度も洪水の被害を受けた場所と思われ、その中で遷座や社殿・社叢の流失といったことも当然あったことは想定され得るでしょう。
式内社「志磨神社」の所在地を紀ノ川河口の中州・三角州の島に求めること自体は妥当で、川の堆積作用により陸地が形成されていく様子に神秘性を感じ神を祀ったことは古くから行われていたものと考えられます。
その信仰が顕著に表れた例として挙げられるのがかつて淀川河口の難波津(現在の大阪府大阪市)で行われた国家的神事「八十島祭」です。
この神事は難波津の海辺において祭壇を設け、天皇の衣の入った箱を揺り動かすといった神事だったようです。
この神事については詳細不明な部分も多く、その目的も諸説ありますが、新天皇の即位にあたって難波津の海辺で国土霊を招いてその衣に付着させ、新天皇がこれを身に纏うことで新たに国土を支配する者としての資格を呪術的に獲得し、権威の拠所としたものとする説が有力です。(詳細は「生國魂神社」(大阪市天王寺区生玉町に鎮座)の記事を参照)
ここにおける「八十島」とはまさに淀川の堆積作用によって形成された多くの島々をそう呼んだもので、こうした島々の出現に神秘性を見出して神を祀った海人らの信仰が国家的神事として取り入れられたものとも考えられます。
式内社「志磨神社」が紀ノ川河口の中州・三角州の島に所在していたとする考えが正しければ、恐らくこの「八十島祭」と同根の信仰で以て祭祀されたことでしょう。
『住吉大社神代記』において「船玉」つまり「船の神」とされていることはこれが元々は海人らの信仰だったことを示唆しており、また紀氏が奉斎したとあることについても、五世紀から六世紀にかけて瀬戸内海の海路を構築した紀氏の動向と無関係ではないのでしょう。
現在の当社の御祭神は「中津島姫命」で、これは「市杵島姫命」の別名とされています。
また配祀神として「生国魂神」を祀っており、この神を祀った経緯ははっきりしないものの、或いは上記の「八十島祭」が「生國魂神社」と深い関わりを持っていることから同社の神が勧請されたのかもしれません。
上記のように江戸時代には民家に挟まれた小さな神社だったらしいものの、式内社として認められてからは崇敬を集めたようで、近代社格制度では県社に列し、現在も和歌山市内で有数の神社の一つとなっています。
なお、当社のすぐ北方にあるJR紀勢本線の紀和駅はかつて和歌山駅を名乗っており、戦前までは和歌山の中心駅として機能していました。その意味でも当社は近代において重視されたのかもしれません。
境内の様子
当社はJR紀勢本線紀和駅の南方200mほどの地に鎮座しています。紀和駅は戦前まで和歌山駅を名乗り、和歌山の中心となる駅でした。
現在の紀和駅はその面影も無く一面一線の無人駅となっている一方で、当社社前の道路「北大通り」は和歌山市における幹線道路で交通量もかなり多くなっています。
この「北大通り」に面して朱塗りの鳥居が南向きに建ち、当社の境内入口となっています。
鳥居の両脇に配置されている狛犬。花崗岩製です。
鳥居をくぐり石畳の参道を進んでいくと途中に神門が建っています。
この神門は桟瓦葺の平入切妻造の八脚門で、左右に中途半端な長さの塀が設けられています。
なお和歌山県神社庁HPには「楼門」とありますが、楼門とは二階建てかつ一階部分に屋根の無い門のことを指すので当社の門には当てはまりません。
神門をくぐった様子。石畳の参道はやや右側へ折れて北東方向へと伸びています。
かつての当社は民家に挟まれ、かつ古木も乏しい地だったと『紀伊続風土記』にあるものの、現在はそこまで狭くはなく、そこそこ木々も生い茂っています。
神門をくぐって右側(東側)に手水舎が建っています。
参道の正面奥に社殿が南西向きに建っています。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に大きな唐破風の向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。こちらは恐らく砂岩製。ユーモラスな顔つきです。
拝殿後方に凸型の幣殿があり、その後方に本殿が建っています。
本殿は銅板葺の一間社春日造で、千木は内削ぎ、かつ身舎の外側に壁が設けられたもの。
外からは見えないものの内部の身舎は極彩色が施されているようです。
延宝六年(1678年)に建立された建築で、貴重なものとして令和四年(2022年)に和歌山県指定文化財となりました。
本社拝殿の手前左側(西側)に建つ社務所の前に鳥居が南東向きに建っています。
「何故?」と思いたくなる配置ですが、石畳を見ると鳥居をくぐってすぐ右側へ折れており、どうやら背後の境内社群を参拝するためのもののようです。
石畳に従って奥へ進むと、本社本殿の左側(西側)に二社の境内社を納めた覆屋が南東向きに建っています。
覆屋は銅板葺の平入切妻造で妻入切妻造の向拝の付いたもの。
内部に鎮座する神社は次の通り。
- 左側(南西側):「弁財天社」(御祭神「市杵島比賣命」)と「猿田彦神社」の相殿。檜皮葺の流見世棚造。
- 右側(北東側):「稲荷神社」(御祭神「宇迦魂神」)。板葺の流見世棚造。
上の覆屋の右側(北東側)に八社の神社が相殿となった境内社が南西向きに鎮座。社殿は桁行方向に長い銅板葺の平入切妻造。
祀られている神社は左側(北西側)から順に次の通り。
- 「焼火神社」(御祭神「加具土神」)
- 「月読神社」(御祭神「月読命」)
- 「蛭子神社」
- 「醫祖神社」(御祭神「大己貴神」「少名彦名神」)
- 「國津神社」(御祭神「中津島姫命」「生國魂神」)
- 「琴平神社」(御祭神「大國主大神」)
- 「宇佐八幡神社」(御祭神「應神天皇」)
- 「八坂神社」(御祭神「須佐之男命」「聖武天皇」)
この中で「國津神社」は何故か本社と全く同じ神が祀られています。
続いて本社社殿の右側(南東側)へ。こちらにも境内社が鎮座しています。
これらの境内社群の内、最も右側(南西側)に「天照皇大神宮」が北西向きに鎮座。
鳥居が建ち、その奥に銅板葺の平入切妻造の社殿が建っています。
天照皇大神宮の左側(北東側)に「久嶋神社」が北西向きに鎮座。
日除けの下に銅板葺の一間社流造の社殿が建っています。社殿には朱塗りも施されています。
久嶋神社の左側(北東側)に「天満神社」が南西向きに鎮座。御祭神は「菅原道真公」。
社殿は他に類例を全く見ない極めて特殊な形式です。銅板葺で、左右に分かれた構造になっており、左側は流造状、右側は一段下がって平入切妻造の屋根が設けられ、何故か人の出入り出来る扉が設置してあります。
恐らく左側に御神体が祀られ、右側で何らかの神事や社務等を行うのでしょう。
そして中央には格子状の枠があり、絵馬等を奉納するところとなっているようです。


御朱印
由緒
案内板
御由緒
地図
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