社号 | 都麻津姫神社 |
読み | つまつひめ |
通称 | |
旧呼称 | 吉礼大明神 等 |
鎮座地 | 和歌山県和歌山市吉礼 |
旧国郡 | 紀伊国名草郡吉礼村 |
御祭神 | 都麻津姫命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月14日 |
都麻津姫神社の概要
和歌山県和歌山市吉礼に鎮座する神社で、式内社「都麻都比賣神社」の論社の一つです。式内社「都麻都比賣神社」は『延喜式』神名帳に名神大社に列せられ、古くは有力な神社だったようです。
当社の御祭神「都麻津姫(ツマツヒメ)命」とはイタケル、オオヤツヒメと共にスサノオの子で、『日本書紀』神代記の第八段の一書④にはこの三兄妹が国内に樹木の種を蒔いて青山とした様子が記されています。
この三兄妹は木の神として信仰されており、イタケルは「伊太祁曽神社」(伊太祈曽地区に鎮座)、オオヤツヒメは「大屋都姫神社」(宇田森地区に鎮座)、そしてツマツヒメは当社及び平尾地区に鎮座する「都麻津姫神社」で祀られています。(ツマツヒメは禰宜地区の「高積神社」とする説もある)
元はこの三社の神は同所で祀られていたとされています。『続日本紀』大宝二年(702年)二月二十二日条には「伊太祈曽、大屋都比売、都麻都比売の三神社を分け遷す」とあり、この時に三社に分かれたことが示されています。
一方、「伊太祁曽神社」の社伝では元は秋月地区の「日前神宮・国懸神宮」の地に鎮座し、いつの頃か「亥の森」と呼ばれる地へ遷座、和銅六年(713年)に現在地に遷座したと伝えています。(上記『続日本紀』の記述から現在地の遷座は大宝二年(702年)とする説もある)
「亥の森」とは伊太祁曽神社の南東450mほどの地にある小さな森で、ここには現在は「三生(ミブ)神社」が鎮座し、今でも「五十猛命」「大屋津姫命」「都麻津姫命」の三柱を祀っています。
この「亥の森」から大宝二年(702年)に「都麻津姫命」を遷座して祀ったものが式内社「都麻都比賣神社」と考えられますが、その論社は当社、平尾地区の「都麻津姫神社」、禰宜地区の「高積神社」の三社があり、いずれが正しいのかは定かでありません。
江戸時代後期の地誌『紀伊国名所図会』等は当社に比定していますが、同じく江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』は平尾地区の「都麻津姫神社」に比定する説を挙げつつ、「高積神社」であった可能性も示しています。
一方で紀伊国の国内神名帳である『紀伊国神名帳』には名草郡に天神として「従一位上 都摩都比賣大神」を記載するのに対し、地祇として「従五位下 吉禮津姫神」を記載しており、『紀伊続風土記』は当社はこの「吉禮津姫神」であるとしています。
地名が「吉礼」であること、また当社は江戸時代以前に「吉礼大明神」と呼ばれたこと等から一定の説得力のある説と言え、現に明治年間には当社は県の「令達」により「吉禮津姫神社」と改称しました。その後、昭和二十一年(1946年)に現在の「都麻津姫神社」に改称しています。
この辺りの事情について、和歌山県神社庁HP( https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1053 )は次のように説明しています。
- 旧・吉禮村(現在の吉礼地区)は往昔より西部に当社とは別に「吉禮津姫神社」と称する小祠があった。
- 数百年前に東西に分裂して、東部を「東禮」と称して「都麻津姫神社」を、西部を「西禮」と称して「吉禮津姫神社」を奉り、氏子地域を分けたが信念の違いから常に紛乱の基となっていた。
- これを憂えた当時の有力者が両社を合祀した。
- 現に境内には「吉禮津姫神社」の小殿があり、西禮に今もその跡地が残る。
この説明に従う限りでは、古くから吉礼の西部に「吉禮津姫神社」が、東部に「都麻津姫神社」があり、両社は古くから別々に祀られており、これが村を分裂させる原因にもなった、ということなのでしょう。
現在も「吉禮津姫神社」の跡地が残るとされていますがその場所は不明。
また当社境内に「吉禮津姫神社」の小殿があるともありますが、訪問した限りでは少なくとも参拝可能な社殿という形では見当たらず、一方でこの神は相殿であるとする資料もあります。
いずれにせよ現在も当社で「吉禮津姫命」を何らかの形で祀っているようです。
この神は記紀等の資料には登場せず、その神格は明らかでありません。恐らく当地のローカル神で、或いは都麻津姫命を祀る巫女を神格化したものだったのかもしれません。
境内の様子
境内入口。当社は吉礼地区の集落内に鎮座しており、入口に南向きの鳥居が建っています。
鳥居をくぐって少し進んだ様子。集落内にありながらも樹木が多く緑豊かな境内となっています。
参道をまっすぐ進むと左側(西側)に手水舎が建っています。
参道の正面奥、石段を上ったところに社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は本瓦葺の平入入母屋造の割拝殿。一部で瓦が崩落しており傷みが目立っていました。
石段前に配置されている狛犬。花崗岩製の比較的新しいもの。
また石段下の左側(西側)には泉があります。
右側の小さな建物は井戸となっていました。
割拝殿の左右の部屋の様子。左側(西側)は床が張られているのに対し右側(東側)は土間となっています。
割拝殿の通路をくぐってすぐ正面奥に石垣があり、この上が本殿等の建つ空間となっています。
中央の石段上には銅板葺の平入切妻造の中門(拝所)が、その左右に透塀が設けられています。
中門の正面奥に銅板葺の三間社(?)流造の本殿が建っています。
本社本殿の左側(西側)に隣接して「大屋津姫命」を祀る境内社が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造。
反対側、本社本殿の右側には「五十猛命」を祀る境内社が南向きに鎮座。
社殿は同じく銅板葺の一間社流造。
これらは恐らく「大屋都姫神社」(宇田森地区に鎮座)と「伊太祁曽神社」(伊太祈曽地区に鎮座)から勧請したものでしょう。
本社本殿等の建つ石垣の左側(西側)の空間に他の境内社がまとまって鎮座しています。
この空間の北側に簡素な中門(拝所)と玉垣が設けられ、その奥の空間に「御霊社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の平入切妻造で、社殿というより神庫のような造りとなっています。
御霊社の傍らに小祠がありますが、祭祀されているのかは不明。
御霊社の中門手前の左側(西側)に「祖甫社」が東向きに鎮座。
社殿は銅板葺の春日見世棚造。
祖甫社の左側(南側)に境内社が東向きに鎮座。社名・祭神は不明ですが狐絵馬が奉納されていることから稲荷系の神社のようです。
朱鳥居、簡素な拝殿(というより庇?)、桟瓦葺の妻入切妻造の社殿で構成されています。
また、御霊社の手前側、本社本殿の建つ石垣の西南端の隙間に小さな祠が西向きに建っています。こちらも狐の置物があることから稲荷系のようです。
和歌山県神社庁HPによれば当社境内に「吉禮津姫神社」の小殿があると記しているものの、それらしきものは見当たりません。或いは御霊社の傍らの小祠がそうなのでしょうか?
相殿として祀られているとの情報もあるため、想像するならば、元々「小殿」として祀られていたのが相殿として祀るようになったため不要となった「小殿」が御霊社の傍らに置かれているのかもしれません。


地図
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