社号 | 旦椋神社 |
読み | あさくら |
通称 | |
旧呼称 | 栗隈天神社 等 |
鎮座地 | 京都府宇治市大久保町北ノ山 |
旧国郡 | 山城国久世郡大久保村 |
御祭神 | 高皇産霊神、神皇産霊神、菅原道真公 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月8日 |
式内社
旦椋神社の概要
京都府宇治市大久保町北ノ山に鎮座する式内社です。
社伝によれば、当社は古く「栗隈県」の地にあり、現在地の西方1kmほどのところにある「旦椋」の地に鎮座していましたが、天文十九年(1550年)十一月に焼失し、当時たまたま断絶していた大久保村の天満天神と併せて、永禄九年(1566年)に現在地に再興され社殿を造営したと伝えられています。
現在の御祭神は「高皇産霊神」「神皇産霊神」「菅原道真公」。後者の一柱は天満天神の御祭神で、前者二柱が旦椋神社の御祭神だったと思われます。しかしどのような人々が当社を奉斎したのかは明らかでありません。
当社はかつて合祀した天満天神に因み「栗隈天神社」と呼ばれていました。『倭名類聚抄』山城国久世郡に「栗隈郷」が記載されており、これはこの付近を範囲としたようです。
『日本書紀』仁徳天皇十二年の条および推古天皇十五年の条に山背国の栗隈の地に大溝(水路)を築いたことが記されており、当社の旧地とされる旦椋の西側を流れる「古川」が栗隈の大溝であるとも言われています。
また、栗隈の大溝に関して当地に屯倉(朝廷の直轄地)があったと言われ、その屯倉にあった倉を、或いは倉に納められていた稲などの穀霊を守護するのが当社だったとも言われています。旦椋の「椋」を「倉」の意と解した説であり、朝廷によって開発・管理された地であることを考えると説得力があるように思えます。
さて、当社の旧地「旦椋」は現在は団地と幹線道路、そしてロードサイド型店舗の建ち並ぶ極めて現代的な景観ですが、かつては田圃が広がり、「七社」と呼ばれる七つの塚があったと言われています。現在はその痕跡は跡形も無いですが、かつてその地にあった微高地が当社の旧社地だったとする説があり、『宇治市史』にはその様子を収めた写真が載せられています。
このように焼失と遷座の憂き目を見た当社ですが、現在の本殿は延宝二年(1674年)に改築されたもので、京都府登録有形文化財の貴重な建築となっています。大久保地区の産土神として今尚近隣住民に信仰されています。
境内の様子
一の鳥居は境内から50mほど南方に南向きに建っています。境内から道路を隔てた空間にあり、一直線に石畳が敷かれています。恐らくかつては馬場だったのでしょう。
道路を隔ててこんもりとした森のある境内があり、入口に二の鳥居が建っています。
二の鳥居の後方に瓦葺・平入切妻造の神門が建っています。形式としては棟門ですが、両部鳥居のように前後に石製の柱を設けて主柱を支え、安定化を図っています。
神門前の狛犬。比較的新しい花崗岩製のもの。
神門をくぐった様子。境内は巨樹が多いながらもしっかりと日の光の注ぐ空間になっています。石畳は一直線でなくほんの少しだけ右側に折れています。
参道の途中、左側(西側)に手水舎があります。
参道の先に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は瓦葺・平入入母屋造の割拝殿で、この地域には珍しいRC造です。山城国では舞殿風拝殿が多いですが、南部ではこのように割拝殿が多くなってきます。
拝殿の手前右側(東側)に牛の銅像が配置されています。当社が天満天神を合祀しかつて栗隈天神社と呼ばれたことに因むと思われますが、この銅像は新しいもので、今でも当社は「天満宮」と認識されていることが伺えます。
割拝殿の通路の先には切妻屋根の付いた廊下が本殿前まで続いています。左右に配置されている灯籠には「天満宮」と刻まれています。
本殿は中門と透塀に囲まれて建っており、檜皮葺の一間社春日造で、全体に彩色が施されています。延宝二年(1674年)に改築されたもので、京都府登録有形文化財。
本殿前の狛犬。こちらは砂岩製で年季の感じられるものです。
本殿前の右側(東側)に境内社が鎮座しています。覆屋の中に二棟の境内社が納められていますが、社名・御祭神は不明です。
境内の背後に御神木であるシイノキが聳えています。高さ14m、幹周り3.2m、樹齢は400年と推定される巨樹です。当社が「栗隈天神社」として新たなスタートを切った頃に芽吹いたのでしょう。根元の洞に神具が設けられてあり、祭祀が行われているようです。
本殿の後方に注連縄の張られた空間があり、内側に砂が盛られていました。何らかの神事がここで行われるのでしょう。
由緒
案内板
式内 旦椋神社
地図