社号 | 家島神社 |
読み | いえしま |
通称 | |
旧呼称 | 天満宮 等 |
鎮座地 | 兵庫県姫路市家島町宮 |
旧国郡 | 播磨国揖東郡家島 |
御祭神 | 大己貴命、少名彦命、天満大神 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 7月24日、25日 |
家島神社の概要
兵庫県姫路市家島町宮に鎮座する神社で、式内社「家嶋神社」の論社の一つです。
式内社「家嶋神社」は『延喜式』神名帳に名神大社に列せられ、古くは有力な神社でした。
当社の案内板に記されている社伝によれば、神武天皇の東征の際、当地に寄港して天神を祀り、海上安全と戦勝を祈願したのが始まりとしています。また同時に、この時港内が穏やかで家の中にいるように静かだったので家島と名付けたとも記しています。
一方で江戸時代には式内社「家嶋神社」は同じ宮地区の集落内に鎮座する「白髭大明神」(現在の「宮浦神社」)に比定する説が主流でした。
江戸時代の地誌『播磨鑑』『播州名所巡覧図絵』や神社を考証した『神名帳考証』『神名帳考証土代』『神社覈録』等の資料も当社でなく白鬚大明神の方を式内社としています。
また上記の神武天皇に係る伝承も管見では江戸時代以前の記録で確認できません。
(※ただし『式内社調査報告』の引く『古事考』(天正四年六月十三日 松愛壽齋花押)には「三韓御門出の時 天神を祭り給ふ」とあるという。詳細不明)
翻って江戸時代の当社は「天満宮」等と称する天神信仰の神社で、現在も当社周辺は菅原道真に関する伝説が多く見受けられます。
また当社の鎮座する岬を「天神鼻」と称することも天神信仰の神社だった当社に因むものです。
『播磨鑑』も菅原道真の左遷の際に清水の浦(当社南西の浜)に船を着けて風景を鑑賞し、後にその跡に社を建てた旨を記しています。恐らく江戸時代以前の当社社伝はこのようなものだったのでしょう。
慶応四年(1868年)にこの天満宮と呼ばれた当社が式内社とされたらしいものの、その根拠や経緯ははっきりしません。
恐らくは幕末から明治にかけて天神を菅公でなく天津神とする解釈が生まれ、神武天皇を称揚する風潮の中で神武天皇とを結びつける伝承も創出されたのかもしれません。
ただ当社の例祭であり7月24日から25日にかけて行われる「天神祭」は家島全土で行われるもので、盆よりもこの時期に帰省する者が多いとされるほど家島において重要な行事とされています。
このことから古くは当社こそが家島で最も重要な神社だった可能性は十分に考え得ることでしょう。
なお『播磨国風土記』では家島の由来について、人々が家を作って住んでいたからそう名付けたとしています。
極めて安直な地名説話と言え、上記の社伝と異なり神武天皇は全く登場しません。
また同風土記は家島諸島内に「神嶋」(現在の上島に比定)があり仏像に似た形の石神があったと記しているものの、家島については特に神がいた等の事跡・伝承は記していません。
しかし『延喜式』神名帳では家嶋神社が名神大社に列せられていることから、風土記の完成後、『延喜式』の編纂までの間に家島の地が国家的に重要と見做されるようになったことが考えられます。
『続日本後紀』承和七年(840年)条に当社を赤穂郡の「八保神」(上郡町八保乙に鎮座)と共に官社とした旨を記しており、これが「家嶋神」の初見です。
『延喜式』神名帳においても名神大社であるにも関わらず揖保郡の最後に記載されていることから、後から追加された(恐らく『弘仁式』等の神名帳には載っていない?)神社だったことも示唆されます。
事情ははっきりしないものの、九世紀中頃以降に急激に重視されるようになった神社だったのかもしれません。
家島の地形は北側に深い入江があるため非常に優れた天然の良港となっており、瀬戸内海の海運において重要な拠点となることは想像に難くありません。
式内社「家嶋神社」が当社である確証は乏しいものの、少なくともここ家島が朝廷にとって極めて重要な地となり、その家島の守護神として奉斎されたのが式内社「家嶋神社」だったのでしょう。
境内の様子
当社は家島の北東に突き出す岬「天神鼻」の尾根の先端に鎮座しています。
当社の入口は丘の西麓(以下「西側入口」と表記)と尾根上にある境内南側(以下「南側入口」と表記)の二ヶ所があり、当記事では西側入口から紹介します。
天神鼻は上の写真のように西方の清水の浜からよく眺めることができ、その先端近くの麓には西側入口にあたる一の鳥居も見えます。
天神鼻の先端へと進み先程見えた一の鳥居へ。
一の鳥居は西向きに建っており、その手前両側には非常に目立つ巨大な石灯籠が配置されています。
この一の鳥居は海に面して建っており、鳥居前付近の浜は「天神浜」と呼ばれています。
後述の「詩ヲ書キ場」の石碑が記す伝承によれば、菅原道真公が左遷の際この地を訪れたとき、詠んだ歌を小石に記して当社に奉納したものの、その小石が浜に紛れて畏れ多いということで島の人々はこの浜の石を決して持ち帰らないとあります。
一の鳥居をくぐると左右に玉垣の設けられた参道がまっすぐ伸びています。
この参道は橋になっており、大きな池(或いは潟湖?)を渡ることになります。
この参道の先やや右側にズレて二の鳥居が西向きに建っており、ここから長い石段を上って丘の上の尾根へ向かうことになります。
なお案内板によれば、神功皇后が天神に祈願した際に全山が鳴動したのでこの一帯は「ゆするの山」と呼ばれたとあります。この尾根を指すと思われるものの現在もそう呼ばれているのかは不明。
二の鳥居の左側(北側)に配置されている大きな手水鉢。
二の鳥居をくぐった先にある石段。天神鼻の尾根は標高35mほどで、石段は尾根まで一気に駆け上がる形で伸びています。
石段を上り切ったところに当社社務所が建っています。
ここが天神鼻の尾根となっており、左側(北側)に社殿が、右側(南側)に南側入口があります。
ここで南側入口を紹介しておきましょう。
南側入口は天神鼻の尾根筋にあり、当社境内の南側で鳥居が南向きに建っています。
丘の上ながら舗装された道路が通っているため自動車でアクセスすることも可能。
ただし家島はフェリーが運航されておらず高速船のみなので一般旅行者が自動車でアクセスすることは難しいでしょう。
鳥居をくぐってすぐ右側(東側)に社務所が建っており、その向かい側(西側)に上述の西側入口からの石段が伸びてきています。
南側入口の鳥居をくぐってすぐ左側(西側)に手水舎が建っています。
この手水舎の右側(北側)で西側入口からの石段が接続しています。
そこから天神鼻の先端へ向かって石畳の参道が伸びています。
この参道もまた尾根筋にあたり、参道の両側は急斜面となっています。
狭い尾根筋ながらも参道の左右には所狭しと多数の灯籠が並べられ、さらに奥へ進むと社殿が見えてきます。
社殿の建つ空間はやや広くなっており、ここが天神鼻の尾根の先端です。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に千鳥破風の付いたもの。比較的新しい木造建築で、後部は本殿を囲う瑞垣と一体化しています。
拝殿前に配置されている狛犬。花崗岩製です。
家島の東側に隣接する男鹿島は花崗岩の有名な産地で、或いはそこで採掘された花崗岩が使用されているのかもしれません。
拝殿後方、瑞垣に囲まれて銅板葺の流造の本殿が建っています。
西側入口へと戻ります。
参道から西側入口の一の鳥居を望むと鳥居越しに海を眺めることが出来ます。
鳥居前の天神浜から海を眺めた様子。
正面(西側)に見える岬は「尾埼鼻」と呼ばれています。天神鼻と尾埼鼻が家島の北側に深い入江を形成しており、家島を天然の良港たらしめています。
天神浜から北側を見やると本州(姫路市・たつの市・相生市辺り)を見渡すことができます。
西側入口から宮浦方面へ海沿いに戻っていくと途中に「詩ヲ書キ場」と呼ばれるところがあり、浜に大きな岩があり注連柱も設けられています。
傍らに建つ石碑の記す伝承によれば、菅原道真公の左遷の際にこの岩場から上陸して詩を詠んだのでこの辺りを「詩ヲ書キ場」、この石を「詩ヲ書キ石」と呼ぶようです。また詩ヲ書キ石は「トシカゾエイシ」「トシカズレイシ」とも呼ばれたことを記しています。
参考までに谷川健一編『日本の神々』によれば、兵庫県加東市上鴨川の「住吉神社」の記事に「シオカキバ」なる地を言及しており、同社の年中行事の始まりはシオカキバに近い林のなかの巨岩を祀る山の神祭に始まること、その翌日には三箇所のシオカキバで七回ずつ水を浴びることを記しています。
この上鴨川の住吉神社の「シオカキバ」が具体的にどこにありどのような場所なのかは不明ながら、或いは当社の「詩ヲ書キ場」も本来はこれと同様だったのかもしれません。
「トシカゾエイシ」の別名も年末年始の祭祀に関わるものだったことを示唆しているものと言えます。
推測するならばシヲカキバは「潮掻き場」の意で、潮を掻き浴びて身を清める場だったのかもしれません。
石碑
由緒 家島神社
由緒
案内板
延喜式内 名神大社 家島神社
地図
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