社号 | 惣社 |
読み | そうしゃ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 兵庫県神戸市西区伊川谷町上脇 |
旧国郡 | 播磨国明石郡池上村 |
御祭神 | 大己貴尊、素盞嗚尊、経津主尊、武甕槌尊 |
社格 | 式内論社、旧郷社 |
例祭 | 10月9日 |
式内社
惣社の概要
兵庫県神戸市西区伊川谷町上脇に鎮座する神社です。押部谷町細田に鎮座する「可美真手命神社」と共に式内社「物部神社」の論社となっています。
社伝によれば、神功皇后の三韓征伐の帰途、明石川から伊川を船で遡り、ここで休憩して「大国主命をここに祀れ」と命じたのが当社の創建であると伝えられています。
瀬戸内海沿岸には神功皇后に創建を求める神社が多く、当社もその一社です。実際にはもっと時代が下ってからの創建と思われるものの、具体的な創建年代ははっきりしません。
また、延久三年(1071年)九月に再建し、伊川の上流にある寺院「太山寺」の僧「定喜」によって勧請されたとも伝えられています。ここでいう“勧請”とは神を迎えて創建したのでなく、再建(再興?)のことを指すようです。
現在の御祭神は「大己貴尊」「素盞嗚尊」「経津主尊」「武甕槌尊」の四柱。上記の社伝に従えば「大己貴尊」が最初の御祭神だったのでしょう。
他の神は上記の“勧請”の時に文字通り勧請されたのかもしれません。
上記のように当社は式内社「物部神社」の論社となっており、これは当社の社名にある「惣」の字が「物部」に通じることを根拠としているようです。
一方で一般に「惣社」(総社)とは国司が赴任先の国にある神社への参拝を省略する為に当該国内の神を一ヶ所に勧請した神社を指し、またある一定の範囲内の鎮守神を指すこともあります。
当社は伊川沿岸の伊川谷地域の鎮守となっており、式内社「物部神社」というよりは伊川谷の「惣社(総社)」であるとする方が妥当かもしれません。
伊川谷地域の当社より下流側では80年代以降に宅地開発が進み、現在では多くの人々から崇敬を受けているようです。
なお式内社「物部神社」について、江戸時代の国学者である度会延経は著書『神名帳考証』で藤江浦に鎮座する旨を記し、その後のいくつかの文献でもこれを踏襲しています。
「藤江」を物部系氏族「葛井氏」に因むものとする推測が根拠となっています。
しかし、現在明石市藤江には「青龍神社」および「御崎神社」が鎮座するものの、いずれも式内社とする主張は皆無であり、現在では完全に否定されているようです。
境内の様子
当社の鎮座する地名「上脇」は「池上村」と「脇村」の合成地名で、当地は前者にあたります。
伊川沿いの当社より南方は宅地開発が進んでいる一方、北方は長閑な光景が今も残っており、ある意味で境界的な地となっています。
当社境内は玉垣で囲われ、入口には鳥居が南向きに建っています。
阪神大震災で甚大な被害を受け、その後大規模に整備が行われたといい、玉垣や鳥居は今も真新しさが感じられます。
鳥居をくぐって左側(西側)に手水舎が建っています。
鳥居をくぐった先は広々とした広場になっており、中央には土俵が設けられています。
広場の奥の石段上に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に千鳥破風と唐破風付きの向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。比較的新しいものが多い当社境内において、狛犬は年季の感じられるものとなっています。
拝殿後方に建つ本殿は檜皮葺で、全国的に珍しい三間社春日造。軒唐破風も付いています。
旧社殿は宝暦十一年(1761年)に建立されたものだったといい、阪神大震災で被害を受け、現在のものはその古材を用いて再建されたものです。
本社本殿の左側(西側)には三社の境内社が南向きに並んでいます。
本社本殿に近い右側(東側)から順に「稲荷社」、「歳徳社」、「山神社」が鎮座。
社殿はいずれも同規格の銅板葺の一間社流造。
本社本殿の右側(東側)には四社の境内社が南向きに並んでいます。
本社本殿に近い左側(西側)から順に「稲荷社」、「猿田彦社」、「荒神社」、「八幡社」が鎮座。
稲荷社のみ朱鳥居が建ち、社殿は銅板葺の流見世棚造となっており、他は同規格の銅板葺の一間社流造となっています。
境内にある神庫等。
境内の隅には岩石が積まれ、その上に砲弾がオブジェとして設置されていました。
由緒
石碑
惣社復興事業記念碑
地図
関係する寺社等
可美真手命神社 (兵庫県神戸市西区押部谷町細田)
社号 可美真手命神社 読み うましまでのみこと 通称 旧呼称 鎮座地 兵庫県神戸市西区押部谷町細田 旧国郡 播磨国明石郡細田村 御祭神 可美真手命 社格 式内論社 例祭 2月27日 式内社 播磨國明石 ...
続きを見る