社号 | 廣田神社 |
読み | ひろた |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 兵庫県西宮市大社町 |
旧国郡 | 摂津国武庫郡広田村 |
御祭神 | 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命) |
社格 | 式内社、二十二社、旧官幣大社 |
例祭 | 3月16日 |
廣田神社の概要
兵庫県西宮市大社町に鎮座する式内社です。『延喜式』神名帳に名神大社に列せられていることに加え、二十二社の下八社にも列せられており、古くから非常に有力な神社でした。
当社の創建に関して、『日本書紀』神功皇后摂政元年二月の条に次のようなことが記されています。
『日本書紀』(大意)
神功皇后が三韓征伐の帰途、忍熊王が反乱を起こした。そこで神功皇后は幼い皇子(応神天皇)を武内宿祢に預け、船を紀淡海峡へ迂回して難波へ進めようとすると、船は海中を回って進むことができなくなってしまった。
務古の港へ戻って占ったところ、天照大神が次のように教えた。「我の荒魂を皇居の近くに置くな。広田国へ置き、山背根子の娘である葉山媛に祀らせよ。」
また稚日女尊が次のように教えた。「我は活田長峡国に鎮まりたい。海上五十狭茅に祀らせよ。」
また事代主尊が次のように教えた。「我は長田国に祀られたい。葉山媛の妹の長媛に祀らせよ。」
また住吉三神が次のように教えた。「我の和魂を大津渟中倉之長峡に祀れ。」
神の教えの通りにしたところ、船は動きだし海を渡ることができた。
このように、神功皇后が三韓征伐から帰って忍熊王を退治しようとした際に、船が進まなくなったので神々の教えにより「生田神社」「長田神社」「住吉大社」と共に当社を祀ったことが記されています。
当社の御祭神は「天照大御神荒御魂」。「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ)」との神名でも呼ばれています。この難しい神名は『日本書紀』にたった一度、神功皇后摂政前紀の仲哀天皇九年二月の条に伊勢国度会県の五十鈴宮にいる神として登場します。
いずれにせよ天照大神の荒魂を祀っています。『日本書紀』の記述では、皇居の近くに荒魂を祀るのが良くないとの旨を託宣で伝え、務古(武庫)の港のすぐ近くである広田国、すなわち当地付近に祀るよう指示しています。
荒魂は神の霊魂の持つ作用で和魂と対になる概念であり、和魂が霊魂の穏やかな作用なのに対し荒魂は激しく動く荒々しい作用です。戦闘の際は幸運をもたらしますが、平時には災厄をもたらすものでもあり、これを恐れて皇居から離されて祀るようになったと考えることもできます。
また、当社を祀る際に神主として山背根子の娘、葉山媛を指名しています。山背根子は天津彦根命の子孫であり、山城国の南部を支配した山背国造も山背根子の子孫とされています。天津彦根命の子孫という意味では摂津や河内を支配した凡河内国造も同族とされており、畿内の広い範囲に影響力を持った一族であると言えます。
『新撰姓氏録』摂津国神別にも天御影命の十一世孫、山代根子の後裔である「山直」が記載されており、この氏族が代々奉斎したのかもしれません。
しかし天照大神の荒魂を祀るという重要な任務を葉山媛が指名された理由は定かではありません。
当社は現在は御手洗川(東川)の右岸側(西側)に鎮座していますが、この地で祀られるようになったのは古いことではありません。
元々は「高隈ノ原」という地に鎮座していたと言われ、詳細は場所は不明ですが、現在地の北方、御手洗川の左岸側の五月ケ丘あたりであろうと言われています。これがいつの頃か現在の南東の低地に遷座されたものの、御手洗川の水害を度々受けたので享保九年(1724年)に現在地に遷座したと伝えられています。
旧地の高隈ノ原は恐らく北方に聳える甲山(カブトヤマ)を遥拝する地だったろうと思われ、当社が甲山を神体山とする山岳信仰の流れを汲むことを示唆しています。
また、西方に連なる六甲山はかつて当社の社領だったと伝えられており、六甲山の山頂近くには当社の境外末社である「六甲山神社」(石宝殿)が鎮座しています。かつて武庫山と呼ばれた六甲山は神功皇后が甲冑を埋めたところであるとの伝承が古くからあり、神功皇后を通して当社と一体的な神話の舞台となっています。
こうした地形を見れば、武庫の港を擁する六甲山や甲山といった背後の山々への神を祀ったのが当社の祭祀の始原だったことが考えられるかもしれません。
平安時代以降、朝廷から非常に厚い崇敬を受け、早くも貞観十年(868年)には従一位の神階を賜っています。後には二十二社の一社となり、さらに中世には国家の神事を司った白川神祇伯家が度々当社に参拝していました。
現在「西宮」と言えば社家町の西宮神社を指しますが、本来の「西宮」は当社だったと言われています。現在では西宮神社の陰に隠れた神社といった印象がありますが、間違いなく古くからの国内有数の神社であり、現在でも多くの人々の崇敬を集めています。
伊和志豆神社
廣田神社の境内摂社で、宝塚市伊孑志に鎮座する「伊和志津神社」と共に式内社「伊和志豆神社」の論社の一つです。御祭神は「伊和志豆之大神」。一説には「彦坐命」であるとも言われています。
当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、古くから「鰯津社」と呼ばれ、廣田神社の摂社でした。
室町時代には白川神祇伯家の祓を修した六社の一社として厚い崇敬を集めていたようです。
元々は廣田神社の南東約1.5kmほどの地に鎮座していましたが、大正六年(1917年)に廣田神社境内に遷座、戦後に本社に合祀されたものの、平成二年(1990年)に再び社殿が造営されました。
旧地は旧・中村(現在の中前田町・中須佐町・中殿町付近)にあったと言われています。
境内の様子
当社の一の鳥居は境内の南南東500mほどのところに南向きに建っています。現在の一の鳥居は木造の神明造ですが、江戸時代の地誌『摂津名所図会』の挿絵では明神鳥居で描かれています。
一の鳥居から北へ450mほどの長い参道が続いており、これはかつての馬場でした。
社地が享保九年(1724年)に現在地へ遷される前はこの辺りに鎮座していたと言われています。
参道の両脇には松並木が続いています。この参道は社地が現在地へ遷された数十年ほど後に刊行された『摂津名所図会』の挿絵にも描かれています。
参道が途切れたところで左(西)へ曲がると二の鳥居が東向きに建っており、境内入口となります。二の鳥居は真っ白な石造で、こちらも神明鳥居。
なお、『摂津名所図会』にはこの場所に鳥居は描かれていません。
二の鳥居をくぐると正面に変わった形の注連柱が建っています。柱は太く、二本の柱の上部に貫が渡されており、貫の突き出ない釘貫門といった形式です。
注連柱の奥は緩やかな石段となっており、微高地であることがわかります。享保九年(1724年)に現在地に遷座したのは御手洗川の水害を避けるためと言われており、その意味でこの微高地は神域としてうってつけの地だったのでしょう。
石段を上った先に手水舎があります。
石段の突き当りは広い空間になっており、右(北)へ曲がると再び石段があります。社殿はこの石段の上に建っています。
社殿前の石段下に配置されている狛犬。花崗岩製でどっしりとしています。
石段上の正面に社殿が南向きに並んでいます。社殿は西宮空襲で焼失しましたが、昭和三十一年(1956年)に伊勢神宮の古材で再建されています。
拝殿は神明造に似た銅板葺の平入切妻造。大型で壁や床の無い開放的な造りです。
なお『摂津名所図会』の挿絵には瓦葺の平入入母屋造で向拝の付いた拝殿が描かれています。
本殿はよく見えませんが銅板葺の神明造です。伊勢神宮の荒祭宮の古材を使用したと言われています。
ちなみに『摂津名所図会』の挿絵では同じ規模の春日造の本殿が五棟並んで描かれています。後述の脇殿が本社本殿と同格で祀られていたようです。
本社本殿の右側(東側)に隣接して第一脇殿の「住吉大神」と第二脇殿の「八幡大神」の相殿が鎮座。
本社は古くから和歌の神としても信仰されており、また一般に和歌の神といえば住吉神だったことから、第一脇殿の住吉大神はこれと関係しているかもしれません。
本社本殿の左側(西側)に隣接して第三脇殿の「諏訪健御名方大神」と第四脇殿の「高皇産霊大神」の相殿が鎮座しています。
本社拝殿の左側(西側)の一画に境内社がまとまって鎮座しています。
本社拝殿の左側(西側)に隣接して「伊和志豆神社」が鎮座。御祭神は「伊和志豆之大神」。鳥居の奥に南向きの石祠が建っています。
宝塚市伊孑志に鎮座する「伊和志津神社」と共に式内社「伊和志豆神社」の論社の一つ。詳細は概要もしくは下記の案内板をご参照ください。
案内板
延喜式内社 攝社 伊和志豆神社
伊和志豆神社の左側(西側)の基壇上に五社の境内社の相殿が東向きに建っています。祀られている神社は左側から次の通り。
- 「稲荷神社」
- 「地神社」
- 「春日神社」
- 「子安神社」
- 「八坂神社」
五社の相殿の左側(南側)に隣接して「松尾神社」が東向きに建っています。この神社だけ相殿でなく独立して社殿がある理由は不明。
本社社殿前の石段を少し下りたところの右側(東側)に「齋殿(ときどの)神社」が西向きに鎮座。御祭神は「葉山媛命」。
葉山媛命は『日本書紀』に廣田神社創建時に最初の神主として指名された人物です。
古くは北東の御手洗川の畔に鎮座していましたが、享保年間に遷座した際(案内板には何故か遷座した年の「享保九年」でなく「享保十二年」とある)に当社も境内の西山に遷座し、明治四十四年(1911年)に境内社の松尾神社に合祀、近年になって再び社殿が設けられました。
案内板
末社 齋殿神社
齋殿神社の右側(南側)に古めかしい小さな石祠が配置されています。
社名・祭神は不明で、祭祀されているのかどうかもわかりません。
境内の西側には御神水が湧いています。境内西方は丘となっており、そこから水を集めているのでしょう。
ただし当社が現在地に祀られるようになったのは享保九年(1724年)のことなので、この湧水が古くから神聖視されていたかは不明です。
当社の側を流れる御手洗川から北方の甲山(カブトヤマ)を望んだ様子。川の奥に見える山が甲山。
当社は元々は御手洗川の北方、現在の五月ケ丘付近に鎮座していたと言われており、甲山を神体山として祭祀していたことが考えられます。
甲山は一説に「神の山」が転訛したものと言われています。中腹には神呪寺があり、現在も信仰の山となっています。西方の六甲山と共に、こうした山々への祭祀から当社の信仰が生まれたことが考えられるかもしれません。


御朱印
由緒
案内板
廣田神社の御由緒
石碑
廣田神社由緒
『摂津名所図会』
地図
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