社号 | 礒崎神社 |
読み | いそざき |
通称 | 礒崎八幡宮 等 |
旧呼称 | |
鎮座地 | 兵庫県加西市下道山町 |
旧国郡 | 播磨国加西郡下道山村 |
御祭神 | 応神天皇 |
社格 | 式内論社 |
例祭 |
式内社
礒崎神社の概要
兵庫県加西市下道山町に鎮座する神社です。式内社「崇健神社」の論社の一つです。
社伝によれば養老三年(719年)に創建され、翌養老四年(720年)に「宇佐神宮」(大分県宇佐市南宇佐に鎮座)から「応神天皇」を勧請したと伝えられています。
現在も社号標に「礒崎八幡宮」と刻まれており、八幡信仰の神社とされています。
その他、当社についての記録や伝承は乏しく、当社の由緒や来歴を明らかにするのは困難です。
一説には中世に神宮寺別当が権力を持ちすぎて氏子たちの負担があまりに重かったため裁判沙汰にもなり式内社としての由緒は捨てた、とも伝えられています。
しかしそのような話は俄かに信じがたく、当社が式内論社となって以降に創出された可能性も考えられるでしょう。
ただその場合、何を根拠に当社が式内社「崇健神社」の論社となったかが不明となります。
式内社「崇健神社」は江戸時代には所在不明となっており、現在当社を含め複数の神社が論社となっているものの、いずれが式内社であるかを決定することはできません。
実際に当社がかつて式内社だったとする伝承があったにしても、やはり積極的に式内論社を主張するのは現状では難しいところでしょう。
なお、当社の参道沿いには赤穂藩の重臣だった奥野定良(将監)の屋敷跡があります。
この人物は赤穂事件において吉良義央(上野介)への討ち入り決定直後に脱盟し、その後は当地に身を寄せて開拓に尽力したと言われています。
境内の様子
当社は下道山地区の集落北東にある丘の麓に鎮座しています。
参道の起点には奥野将監の屋敷跡があることを示す看板が立てられています。
そこから少し進んだところに鳥居が西向きに建っており、傍らに立つ社号標には「礒崎八幡宮」と刻まれています。
鳥居からは350mほども続く非常に長い参道が伸びています。
途中、右側(南側)には鐘堂が建っています。
さらに参道を進んだ様子。若干の民家が建っています。神社関係者の家でしょうか。
この右側(南側)に奥野将監の屋敷跡があるらしいものの訪問失念。林の中にちょっとした空き地があるだけのようです。
参道途中には獣除けの網が張られています。
開けたらきちんと閉めておくように注意を促す札がありました。
網を開けてくぐった様子。この辺りから参道は森の中となります。
先に境内社を一社紹介しておきます。この参道途中の左側(北側)、少し奥まったところに「天満神社」が南向きに鎮座。
社殿は銅板葺の一間社流造。
道を戻って再び参道を進んでいくと石段の上に社殿が見えてきます。
石段の途中には注連柱が一対建っています。
注連柱の左側(北側)に手水舎が建っています。
社号標から少し石段を上ると左右に「門守随神社」が一対ずつ互いを向き合って鎮座。
社殿はいずれも桟瓦葺の妻入切妻造。
社名の通り随身を祀る神社で、旧・加西郡ではこのように随身門でなく境内社という形を採る例が多く見られます。
石段上には広場があり、そこからさらに石段を上ったところに社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造に銅板葺の唐破風の向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。
拝殿内部の様子。壁が低く開放的な構造。屋根裏には複数の絵馬も掲げられています。
拝殿後方に建つ本殿は銅板葺の一間社隅木入春日造。
南側から社殿全体を見た様子。
拝殿後方には凸部があり、ここが幣殿となっているようです。
本社拝殿の左側(北側)には奥へと道が伸びており、この道に沿って二社の境内社が鎮座しています。
この道沿いの手前側には「大己貴命」と「清和天皇」を祀る境内社が南向きに鎮座。
社殿は桟瓦葺の一間社流造。
この道の最奥部には「薬師神社」が南向きに鎮座。御祭神は「大名持命」「薬師如来」。元は仏堂だったのかもしれません。
社殿は桟瓦葺の流見世棚造。
本社本殿の左奥(北東側)に「少宮社」と「高良神社」の相殿が西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の神明造。
反対側、本社本殿の右奥(南東側)に「住吉神社」と「稲荷神社」の相殿が西向きに鎮座。
社殿は銅板葺の神明造。
地図
関係する寺社等
高峯神社 (兵庫県加西市畑町)
社号 高峯神社 読み たかみね 通称 旧呼称 五社大明神 等 鎮座地 兵庫県加西市畑町 旧国郡 播磨国加西郡畑村 御祭神 国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大神、月讀神、稚産靈神 社格 式内論社 ...
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