社号 | 佐用都比賣神社 |
読み | さよつひめ |
通称 | |
旧呼称 | 佐用姫大明神 等 |
鎮座地 | 兵庫県佐用郡佐用町本位田甲 |
旧国郡 | 播磨国佐用郡本位田村 |
御祭神 | 市杵島姫命 |
社格 | 式内社、旧県社 |
例祭 | 10月30日 |
佐用都比賣神社の概要
兵庫県佐用郡佐用町本位田甲に鎮座する式内社です。
当社は社名からして「佐用都比賣」なる神を祀っていたことは明らかで、この神については『播磨国風土記』の讃容郡(佐用郡)の記事に事跡が記されています。
『播磨国風土記』(大意)
讃容の所以は次の通りである。大神妹妋(いもせ)二柱の神が国占めで争っていたとき、妹神の玉津日女命が生きた鹿を捕らえて腹を割き、その血に稲を蒔いたところ一夜のうちに苗が生えので、これを取って植えさせた。
すると大神は「お前は五月夜(さよ)に植えたのか」と言い、他所へ去った。故に五月夜郡と名付け、神の名は賛用都比賣命という。
この玉津日女命=賛用都比賣命が当社の祭神であったことに異論は無いでしょう。
ただ、ここに登場する「大神」とは何者なのか、「大神妹妋二柱」の大神と妹と妋はどのような関係なのかがイマイチはっきりしない記事となっています。
『播磨国風土記』の西部地域の記事では伊和大神の活躍する記事が頻出しており、讃容郡における「大神」もこの伊和大神であると解釈するのが穏当でしょう。
ただ「大神妹妋二柱」の部分は、「大神」と「妹妋(=夫婦)二柱」が争っていたのか、それとも「妹妋二柱」を合わせて「大神」と表現しているのか、解釈の分かれるところです。
仮に後者とすれば、玉津日女命=賛用都比賣命と伊和大神(?)が妹妋の関係であることになるのでしょう。
一方、この讃容郡の記事は玉津日女命=賛用都比賣命は鹿の血に稲の種を蒔いて見事苗を発芽させることで国占めに成功したことを示しています。
一般に血は穢れであり、血に種を植えるなどとんでもないことのように思えるものの、或いは血が穢れであると解されるようになる以前の非常に古い伝承が反映されている可能性も考えられます。
生きた鹿の血はむしろ稲の成長を促す霊力があると信じられた時代があったのかもしれません。
当社の記録上の初見は『続日本後期』嘉祥二年(849年)十一月二日条の佐用津姫神を官社に預るとする記事ですが、恐らくそれ以前から当社で佐用郡における開拓神として玉津日女命=賛用都比賣命を祀っていたことでしょう。
しかし『播磨国風土記』が再発見されたのは江戸時代後期のことであり、早くからその内容は忘却されてしまいました。
後世には大伴狭手彦との悲恋の伝説で知られる松浦佐用姫のこととする解釈が行われるようになり、中世の地誌『峯相記』もこの説を採っています。
北西約3kmほどの仁方地区に鎮座する「神場神社」では「大伴狭手彦」を祭神としており、恐らくこちらも後世の祭神の変更があったものと思われるものの、当地で松浦佐用姫が祀られることの説得力を高めるものとなっています。
現在の当社の御祭神は「市杵島姫命」。別名を「狭依毘売命」とも称することから、地名「佐用」と結びついて付会したものと思われます。
ただし『播磨国風土記』託賀郡黒田里の袁布山の記事では宗形大神の奥津島姫命が伊和大神の子を孕んだことを記しており、奥津島姫命とはイチキシマヒメの姉妹神であるタギリヒメの別名です。
上述のように讃容郡の記事からは伊和大神と玉津日女命=賛用都比賣命が夫婦であると解釈することも可能で、これに基づき当社で伊和大神の妃神を祀るとすれば、それを宗像神とするのは全く縁の無いものとも言い切れないことでしょう。
当社は天正五年(1577年)に羽柴秀吉の上月城攻めで兵火に罹って社殿が焼失したと伝えられるものの、その後は姫路藩主や平福の領主から厚く崇敬を受けたといい、元禄十四年(1701年)には現在の社殿が再建されています。
古くから現在に至るまで、佐用郡内における最も重要な神社として信仰を集めています。
境内の様子
当社は佐用町の中心市街の1kmほど北東、本位田地区に鎮座しています。
当地の地名である本位田(ホンイデン)とは律令時代に有位者や皇族へ位階や品位に応じて支給された田である「位田」に因むとされています。
境内は森が鬱蒼と茂り、南端に一の鳥居が南向きに建ち入口となっています。
一の鳥居をくぐると注連柱が配置され、参道が社殿までまっすぐ伸びています。
注連柱をくぐって右側(東側)に手水舎が建っています。
都合上、先に一つ境内社を紹介しておきます。参道を挟んで手水舎の向かい側に「塩川神社」が東向きに鎮座。御祭神は「速須佐良比賣命」。
鳥居が建ち、その奥に一間社流造の社殿が建っています。
当社の案内図には手水舎で手水を行った後にこの塩川神社へ参拝して禊・祓を祈るよう案内されています。
奈良県の神社ではしばしば本社参拝前に境内の祓戸神社へ参拝する習わしがあり、それと同様の神社にあたるのでしょう。
手水舎・塩川神社の先には二の鳥居が南向きに建っています。
二の鳥居をくぐった様子。日の低い時期でしたが、鬱蒼とした社叢に覆われつつも、社殿の辺りは日差しが届いています。
境内奥に社殿が南向きに並んでいます。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に千鳥破風と向拝の付いたもの。
拝殿前に配置されている狛犬。備前焼製となっています。吉備方面との近さを示すものと言えるかもしれません。
拝殿には「佐用姫大明神宮」と揮毫された立派な扁額が掲げられており、これは宝永二年(1705年)に奉納されたもの。
拝殿後方に建つ本殿は銅板葺の三間社入母屋造。
これら社殿は元禄十四年(1701年)に平福に居住していた旗本の松平久之烝が再建したもので、その後幾度かの改修が行われているようです。
境内社等
本社本殿の左側(西側)に「若宮神社」が南向きに鎮座。御祭神は「高皇魂命」。
覆屋の中に板葺の一間社流造の社殿が納められています。
若宮神社からさらに北側、境内北端の道路沿いに方形の池があり、その畔に「水神社」が西向きに鎮座。御祭神は「彌都波能売命」。
覆屋に板葺の一間社流造の社殿が納められています。
なお当社にはかつて北側に鳥居があったといい、これはかつて領主だった松平家の所在地が北方の平福だったためです。
翻って、本社本殿の右側(東側)に「天満神社」が南向きに鎮座。御祭神は「菅原道真」。
覆屋に板葺の一間社流造の社殿が納められています。
天満神社の右奥(北東側)に「片宮神社」が南向きに鎮座。御祭神は「天照大神」。
神明鳥居が建ち、奥に銅板葺の神明造の社殿が建っています。
天照大神は本社祭神の市杵島姫命の伯母にあたることから「伯母宮神社」とも呼ばれ、また「奥ノ院」ともされています。
本社拝殿の手前右側(東側)には「佐用姫稲荷神社」が西向きに鎮座。御祭神は「豊受大神」。
朱鳥居が建ち、奥に建つ覆屋に朱塗りの一間社春日造の社殿が納められています。
佐用姫稲荷神社の右側(南側)にこのような桟瓦葺の平入入母屋造の大規模な建物があります。
案内図には「絵馬堂」とあるものの、本来は西播磨地域に多い舞台だったのではと思われます。
境内西側には参道上の手水舎とは別に井戸があります。或いはこちらが旧来の手水舎だったのかもしれません。


由緒
案内板
佐用都比賣神社御由緒
地図