社号 | 小田神社 |
読み | おだ |
通称 | |
旧呼称 | |
鎮座地 | 和歌山県橋本市高野口町小田 |
旧国郡 | 紀伊国伊都郡小田村 |
御祭神 | 物部建彦命 |
社格 | 旧村社 |
例祭 | 10月31日 |
式内社
小田神社の概要
和歌山県橋本市高野口町小田に鎮座する式内社です。
当社の創建・由緒について、物部氏の一族である「小田氏」が当地に居住し祖を祀ったとする説があります。
物部系の史書『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒの十三世孫「物部建彦連公」は「小田連」等の祖であると記しており、この氏族が当社を奉斎した可能性が考えられます。
現在の当社の御祭神も小田氏の祖である「物部建彦命」であり、この説に則ったものとなっています。
ただし当地に小田氏が居住していた確証は無く、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』も上記の説を「或はいふ」と紹介しつつも「祭神詳ならず」としています。
当社はかつては四町四方の広い境内を有していたものの、数度の兵乱により社殿や宝物を失い社地も荒廃したと伝えられています。
そんな中、江戸時代に至って紀州藩の初代藩主である徳川頼宣が元和年間(1615年~1624年)に石の宝殿を建てて「小田神社」の字を刻み、当社を再興しました。この石の宝殿は現在の御神体となっているようです。
『紀伊続風土記』は周囲に「神田」なる小字があることを指摘しており、社伝の通り往時は規模の大きな神社だったことが偲ばれます。
境内の様子
当社は小田地区の集落内に鎮座しており、境内は玉垣で囲われ、入口には一の鳥居が南向きに建っています。
一の鳥居をくぐってすぐ右側(東側)に手水舎があります。
一の鳥居のすぐ先には割拝殿が建っています。この建物は桟瓦葺の平入入母屋造で、通路部分が段違い屋根になったもの。
通路部分には鈴の緒と賽銭箱が設けられており、珍しくこの割拝殿は機能的にも拝殿となっています。
割拝殿を背後から見た様子。通路は東側に寄っており、東側の部屋のみ吹き放ちの構造になっています。
割拝殿をくぐった様子。木々の疎らな空間となっており、この奥に本殿等が配置されています。
往時の当社はもっと広い境内だったといい、その当時はもっと鬱蒼と木々が生い茂り、壮麗な社殿が建っていたのかもしれません。
この空間の奥へ。二の鳥居が南向きに建ち、その後方の石垣上に中門と瑞垣が廻らされ、その中に本殿と境内社が建っています。
石垣上の空間は本殿の建つ主要な方形の区画と、その右側(東側)の境内社の建つやや小さな区画で構成されています。
二の鳥居および拝所の奥に銅板葺の一間社春日造の本殿が南向きに建っています。
当社は江戸時代の再興の際に建てられた石の宝殿が御神体になっているといい、恐らくこの中に納められているのでしょう。
本社本殿の右側(東側)に境内社が南向きに鎮座。この境内社は四社の相殿となっており、次の神社が祀られています。
- 「稲荷神社」(御祭神「倉稲魂命」)
- 「國保食神社」(御祭神「國保食神」)
- 「香都知神社」(御祭神「香都知神」)
- 「猿田神社」(御祭神「猿田彦命」)
社殿は銅板葺の二間社流見世棚造。
境内の東側の一画に玉垣で囲われた謎の区画がありました。
玉垣内には玉石が敷かれ、「大宮旧□(「跡」か?)」と刻まれた石碑が建っています。詳細不明。
当社の南方には紀ノ川が流れています。
当社の鎮座する小田地区が紀ノ川の畔であることから、或いは当社を奉斎した人々は紀ノ川の水運を担っていたのかもしれません。
由緒
案内板
和歌山県伊都郡高野口町大字小田字宮畑七拾六番地鎮座
村社 小田神社
地図