社号 | 與杼神社 |
読み | よど |
通称 | |
旧呼称 | 淀大明神、水垂社 等 |
鎮座地 | 京都府京都市伏見区淀本町 |
旧国郡 | 旧地:山城国紀伊郡水垂村 現在地:山城国久世郡淀町 |
御祭神 | 豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月30日~11月3日 |
式内社
與杼神社の概要
京都府京都市伏見区淀本町に鎮座する式内社です。
社伝によれば、応和年間(961年~964年)に千観内供という僧侶が肥前国佐賀郡河上村(現在の佐賀県佐賀市大和町川上)に鎮座する「與止日女神社」から勧請し淀大明神として祀ったのが当社の始まりであると伝えられています。
しかし、応和年間より遡る『延喜式』神名帳に既に当社が見えることに加え、さらに古く『三代実録』貞観元年(859年)正月二十七日の条にも当社の神が見えることから、少なくとも社伝より100年以上前には祀られていたことは明らかです。
当社の御祭神の筆頭である「豊玉姫命」は海神豊玉彦命の娘であり、海宮にてホオリ(彦火火出見尊)と結婚し、神武天皇の父となる鸕鶿草葺不合尊を生んだ海の女神です。しかし当社の社伝では一説に神功皇后の姉であるとも言われています。
なお、社伝で勧請元とされている與止日女神社では、御祭神の「與止日女命」とは神功皇后の妹、もしくは豊玉姫命であると伝えられています。
当社はかつて山城国紀伊郡水垂村、桂川の右岸になる地に鎮座していましたが、明治年間の桂川の河川改修工事により明治三十五年(1900年)に淀城跡である現在地に遷座しました。旧地は現在は桂川の川底となっているようです。
旧地に鎮座していた頃の様子は詳らかでありませんでしたが、恐らく與止日女神社と同様に川の畔に鎮座していたものと思われます。
その神格は桂川はじめ淀川三川の水流の安寧、および河川舟運の安全を守護し、豊漁をもたらす神として信仰されたことでしょう。
社前を流れていた桂川は淀川となり河内湖を経て大阪湾へと通じていました。すなわち当地は水運における京都盆地の玄関口であり、様々な文物の集積する地だったことが考えられます。
洪水の発生しやすい三川合流の地であることに加え、川や海を通じた交流の行われた当地において海神が祀られたのも自然のことだったのかもしれません。
一方、当社の社名「與杼(与杼:ヨド)」と淀川の名は関連があると思われますが、一般に淀川の由来が当社であるとされることはなく、巨椋池の出口で川が淀んでいたことに因むとされています。
そうであるならば、ヨドの地名もしくは淀川の川名が先にあったことになり、與止日女神社と無関係に淀川の女神を祀ったのが当社とも考えられます。
当社の創建がどのようなものであったかは定かではありませんが、当社が淀川水系と強い関わりがあったことは間違いないでしょう。
当社の拝殿は慶長十二年(1607年)の建築で国指定重要文化財となっています。かつて本殿も同年代の建立で同じく国重文に指定されていましたが、昭和五十年(1975年)に中学生の遊んでいた花火が原因で火災が発生し、残念ながら焼失してしまいました。
しかしその後再建され、淀城跡という立地もあり再び厳かな雰囲気を取り戻しています。
境内の様子
京阪淀駅の南西250mほど、淀城跡に当社は鎮座しています。鳥居は境内の東端に南東向きに建っています。
鳥居をくぐってすぐに参道は左へと折れ、そこから社殿まで一直線に参道が伸びています。参道の左右は駐車場となっています。
参道を進むと両側に石垣が積まれてあり、その後方左右に一対の大きなイチョウが聳えています。
両イチョウの間には注連縄が渡されており注連柱として機能しています。
イチョウを過ぎると左側(南側)に手水舎があります。
さらに参道を進むと三段の石段があり、その奥のやや小高くなった空間は玉垣が設けられ手前側と区画されています。
石段前の左右に配置されている狛犬。砂岩製で、非常に洗練されたスマートでスラっとした狛犬です。
石段を上ると正面に東向きの社殿が並んでいます。
拝殿は杮葺・妻入入母屋造の舞殿風拝殿。慶長十二年(1607年)に建立されたもので、桃山建築の特徴の見られる貴重な建築として国指定重要文化財となっています。
後方の基壇上に銅板葺・三間社流造の本殿が建っています。内陣と外陣に分かれており、外陣は扉が開放され実質的に拝殿的な機能を持ち合わせています。
前述のようにかつて本殿も拝殿と同時期の建立で国重文の指定を受けていましたが、残念ながら昭和五十年(1975年)に中学生の花火による火災で焼失してしまいました。現在の本殿は昭和五十五年(1980年)の再建。
本殿前の狛犬。砂岩製で、こちらはずんぐりとした体形です。
本社社殿の左側(南側)にこのような基壇があり、その中央に石が配置されています。当社の旧地から発見された基礎石のようです。
なお、この基壇前に配置されている一対の灯籠は江戸時代はじめの豪商「淀屋」が奉納したものです。淀屋は米相場の基準となる米市を設立して莫大な財を成し、淀屋橋を築いたことでも有名です。
淀屋の初代は当地周辺の出身とも言われており、この縁で当社に奉納されたようです。
案内板
江戸時代の豪商ゆかりの大坂淀屋の高灯籠
本社本殿の右側(北側)に神明造の本殿と妻入切妻造の拝殿を備えた境内社が東向きに鎮座しています。社名・祭神は不明ですが、案内板に「日大臣社」なる境内社のあることが記されており、恐らく当社がこれであると思われます。
本社拝殿の左側(南側)に三社の境内社が北向きに並んで鎮座しています。いずれも社殿前に複数の朱鳥居が並んでいます。
これらの境内社の内、最も左側(東側)に「川上大明神」が鎮座。
社殿の背後には「川上大明神」と刻まれた石碑が建っています。
川上大明神の右側(西側)に「豊丸大明神」が鎮座。
社殿の背後には「豊丸明神」と刻まれた石碑が建っています。
豊丸大明神の右側(西側)に「長姫辨財天」が鎮座。他二社が稲荷系なのに対してこちらは弁才天を祀っており、朱鳥居が並ぶものの異なる系統の神を祀っています。
稲葉神社
與杼神社境内のすぐ南側に隣接して「稲葉神社」が鎮座しています。與杼神社とは異なる神社のようですが、境内が連続しているためこちらで紹介します。
稲葉神社の御祭神は「稲葉正成」。淀藩主だった稲葉家が祖である稲葉正成を祀ったのが当社です。
與杼神社の鳥居の左側(西側)に当社の鳥居が東向きに建っています。
鳥居をくぐって右側(北側)に手水舎があります。草が伸び放題で半ば埋もれてしまっています。
正面に社殿が東向きに並んでいます。拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造。
後方の基壇上に瓦葺・向唐破風の中門(拝所)と瑞垣が設けられ、その内側に本殿が建っています。本殿は覆屋に納められておりよく見えません。
稲葉神社本殿の左側(南側)に「稲荷大明神」が東向きに鎮座しています。鳥居は朽ちかけており荒れた神社となっています。
稲葉神社の南側には淀城の石垣が積まれており、当地が城郭だったことを偲べる遺構となっています。
かつての淀城は淀川から水を引いて幾重にも堀が廻らされていましたが今ではその一部が残るのみとなっています。
案内板
稲葉神社の祭神と淀藩について
案内板
淀城の由来
境内周辺の様子
当社の北方を流れる桂川。当社は明治の桂川の河川改修工事により現在地に遷座し、旧地は現在は桂川の川底となっているようです。
当社から桂川を渡った対岸、大淀下津町に当社の御旅所があります。
塀に囲われた空間で、正面に銅板葺流見世棚造の朱塗りの社殿が覆屋に納められ、南東向きに建っています。手前側に朱鳥居も建っています。
左右に配置されている金網で囲われた石灯籠は享保二十一年(1736年)のもの。
航空写真を見ると90年代にはもっと川に近いところに集落があったものの、現在は水害対策のためか北西側に集落が移っており、この御旅所も同時に遷ったことが推測されます。
恐らく御旅所自体は江戸時代からあったのでしょう。
御朱印
由緒
案内板
与杼神社
『都名所図会』
地図
御旅所