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宇治神社 (京都府宇治市宇治山田)

社号 宇治神社
読み うじ
通称
旧呼称 宇治離宮明神、離宮下社 等
鎮座地 京都府宇治市宇治山田
旧国郡 山城国宇治郡宇治郷
御祭神 菟道稚郎子命
社格 式内社、旧府社
例祭 5月8日、6月8日

 

宇治神社の概要

京都府宇治市宇治山田に鎮座する式内社です。

当社の創建・由緒は詳らかでありませんが、古くから「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)命」を祀るとされています。後には平等院の鎮守社ともなりました。

近隣に鎮座する「宇治上神社」と対になる神社であり、共に式内社「宇治神社」の論社となっています。『延喜式』神名帳には宇治神社は二座とあるため、当社と宇治上神社の両方を併せて式内社でそれぞれ一座ずつ祀られていたとする説もあります。

ただいずれにしても、二座の内一座が菟道稚郎子命であると考えられる一方、もう一座が如何なる神であったかは諸説あります。もう一座は菟道稚郎子命の父である応神天皇、異母兄の仁徳天皇、母の宮主宅媛などの説があります。

当社の御祭神「菟道稚郎子命」は応神天皇の皇子にあたる人物です。応神天皇が崩御した際、皇太子だった菟道稚郎子は即位せず、異母兄だった大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、三年間も空位が続いたことを憂え菟道稚郎子命が自害に及び、大鷦鷯尊を皇位に就かせた、という話が美談として非常に有名です。

菟道稚郎子はその名に「ウヂ」が付くことからもわかるように、宇治と関連の深い人物です。『日本書紀』にはとある海人が菟道稚郎子へ魚を献上する為に「菟道宮」へ持って行ったとあり、大鷦鷯尊と皇位を譲り合っていた間に宇治に住んでいたことが窺えます。

また、菟道稚郎子の薨去の後、大鷦鷯尊が「菟道宮」へ至り、菟道稚郎子へ蘇生の術を施してしばしやり取りを行い、再び薨じたところで「菟道山上」で葬った、ともあります。

このように菟道稚郎子は最期の時まで宇治で過ごし、死後は宇治で葬られました。

一方で『山城国』風土記逸文は、宇治を菟道稚郎子に因むとし、宇治に「桐原日桁宮」を造営したとあります。桐原日桁宮とは『日本書紀』に見える「菟道宮」のことと思われ、菟道稚郎子が宇治で居住するにあたり本格的な宮殿を営んだことが窺えます。

当社や宇治上神社が「宇治離宮明神」などと称したのは、両社の社地がこの菟道稚郎子の離宮である「桐原日桁宮」だったことに因むとも言われています。

ただ、『山城国』風土記逸文に宇治の地名が菟道稚郎子に因むとあるのは疑問で、『日本書紀』に菟道稚郎子の登場前から「菟道」の地名が見えるため、先に「ウチ/ウヂ」の地名があり、菟道稚郎子がこの地名に因んで名付けられたと考えるのが妥当です。

菟道稚郎子の母である宮主宅媛(宮主矢河枝比売)は和珥氏の出身で、『古事記』には宇治の近隣である木幡村(現在の宇治市木幡)に住んでいたことが記されており、菟道稚郎子の出生からして宇治と縁の深いことが示されています。

 

当社はこのように菟道稚郎子の離宮のあった地とされ、また宇治と関連が深く、皇室の行末のために自らを犠牲にしたとされる菟道稚郎子を祀っています。

式内社において特定の人物を祀るのは珍しく、他に豊前国宇佐郡の式内社「大帯姫廟神社」(現在の宇佐神宮)のように廟として創建された数少ない式内社の一つと言えるかもしれません。

一方でそれとは別に物部系氏族の「宇治部氏」や「宇治氏」といった氏族が当地に居住し祖神を祀ったことも考えられ、当社の伝承が乏しいこともあり確定的に判断することはできません。

琵琶湖から流出する唯一の河川である瀬田川が宇治川と名を変え、深山幽谷を抜けて当地で急に開けた平野となるため、当社は宇治川の神として水神的な神格も持っていた可能性もあります。

 

当社の本殿は鎌倉時代初期に造営された建築で、宇治上神社本殿には及ばないにしても極めて古く貴重な建築であり、国指定重要文化財となっています。

また、本殿内には菟道稚郎子像とされる神像が安置されており、こちらも国指定重要文化財となっています。

宇治は国内のみならず近年は海外にもその名が知られつつあり、日本有数の観光地となっています。当社は宇治上神社と併せて宇治の産土神として、また観光地「宇治」の一翼を担う神社として、現在は非常に多くの人を集める神社となっています。

 

境内の様子

宇治神社

境内入口。社前を流れる宇治川に面して南西向きに一の鳥居である朱鳥居が建っています。

 

一の鳥居の左右に配置されている狛犬。砂岩製でしょうか。力強い作風です。

 

一の鳥居をくぐった様子。石畳が伸びて左右に灯籠が並び、奥に石段の続く高低差のある境内となっています。

 

参道途中の二基の狛犬。花崗岩製で、背を反らして頭を上げ口を大きく開けた特徴的な出で立ちです。

何故か左右一対でなく、二基とも参道左側(北西側)に配置されています。

 

参道途中の右側(南東側)に手水舎があります。菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」に因んでか、手水鉢には右書きで「桐原水」と刻まれています。

また吐水は当社の神使である兎の像となっています。

社伝では、菟道稚郎子が河内国より当地へ向かう途中に道を迷っていたところ、一羽の兎が現れて振り返りながら先導したと伝えられ、「みかえりうさぎ」として兎が当社の神使となっています。

ただ、恐らく実際には「菟道」の表記の連想で付会されたものと思われます。

 

宇治神社

石段を上ると正面に南西向きの社殿が並んでいます。

拝殿は檜皮葺・入母屋造妻入で軒唐破風の付いた三間四方の舞殿風拝殿です。

拝殿には右書きで「桐原殿」と書かれた扁額が掲げられており、これもまた菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」に因んだものと思われます。

 

宇治神社

宇治神社

拝殿の後方に二の鳥居の朱鳥居が建っており、再び石段が続いています。

 

二の鳥居の左右に配置されている狛犬。砂岩製で大きな鼻が特徴的。

 

宇治神社

石段上に銅板葺・平入切妻造の中門(拝所)と透塀が設けられています。透塀の後方は瑞垣が接続されており本殿を囲っています。

これら中門や塀は朱が施されており、当社を参拝する上で強く印象付けられる鮮やかなものとなっています。

 

宇治神社本殿

本殿は檜皮葺の三間社流造。正確な年代は不明なものの、鎌倉時代初期に建立された極めて貴重な建築であり、国指定重要文化財となっています。

 

本殿の左右に多くの境内社が祀られています。本殿左側(北西側)には四社の小型の流見世棚造の境内社が南東向きに鎮座しています。

 

本殿左側(北西側)の最も手前側(南西側)に「廣田神社」が鎮座。御祭神は「蛭子命」。

兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神荒魂を祀っていますが、当社はかつて廣田神社の境外摂社だった西宮神社の御祭神である蛭子命の方を祀っており、微妙な食い違いが気になるところ。

 

廣田神社の右側(北東側)に「松尾神社」が鎮座。御祭神は「市杵島姫命」。

 

松尾神社の右側(北東側)に「高良神社」が鎮座。御祭神は「武内宿禰」。

 

高良神社の右側(北東側)に「伊勢両宮」が鎮座。御祭神は「天照皇大神」「国常立命」。

伊勢両宮とあるからには天照大神と豊受大神かと思いがちですが、当社では豊受大神でなく国常立命の方を祀っています。

 

続いて本殿右側(南東側)へ。こちらには三社のやや大きな流見世棚造の境内社が北西向きに鎮座しています。

 

本殿右側(南東側)の最も手前側(南西側)には「春日神社」が鎮座。御祭神は「建甕槌命」「斎主命」「天児屋根命」。

こちらの社殿は京都府指定有形文化財となっています。

 

春日神社の左側(北東側)に「日吉神社」が鎮座。御祭神は「大山咋命」。

 

日吉神社の左側(北東側)に「住吉神社」が鎮座。御祭神は「底筒男命」「中筒男命」「上筒男命」「神功皇后」。

 

道を戻ります。境内の南側に銅板葺・切妻造の絵馬殿が建っています。絵馬殿とはいえ屋根裏に絵馬が掲げられているわけでなく、柱に渡された長押状の横木に個人向け絵馬が吊るされています。

 

当社に属するものではないと思われますが、当社の一の鳥居のすぐ近くに宇治川の船着き場があり、岸に面して桟瓦葺・平入入母屋造の門が建てられています。

宇治川が現在の流路になったのは文禄年間に豊臣秀吉が改修したことによると言われており、ここが船着き場となったのも恐らくそれ以降のことでしょう。

船着き場のすぐ側に鎮座する当社は宇治川を行き交う船を守護する神としても信仰されたのではなかったでしょうか。

 

船着き場から眺めた宇治川の様子。この地は山間部を流れてきた宇治川が急に平野部へ抜け出るところであり、まさしく水運上の要衝です。

かつてはここで多くの人々が行き交い、文物が集められたことでしょう。

 

タマヨリ姫
宇治って有名なところだよね!やっぱりここは宇治の中心になるのかな?
宇治の代表的な観光地である平等院鳳凰堂は宇治川の対岸にあるわ。豊臣秀吉による宇治川の改修で宇治の町は分断されて、それ以降宇治の中心は川の向こう側になっちゃったみたいね。
トヨタマ姫

 

御朱印

 

由緒

案内板「延喜式内社 宇治神社」

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延喜式内社 宇治神社

【御祭神】

菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
(第十五代応神天皇の皇子)

【御由緒】

宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは第十五代応神天皇の離宮《桐原日桁宮》でもあり、皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられており、命の薨御後に、御神霊をこの地にお祀りしたのが、当神社の始まりである。

応神天皇は命を皇嗣と定めておられ、兄宮である大鷦鷯尊《後の仁徳天皇》を太子の輔導にあてられた。これは、我が国の古代の慣例であり、なるべく若い者に嗣がせた方が一代の活躍期間が長く、国の繁栄が期待できるとされていたのである。ところが命は、阿直岐や王仁などを師に迎え典籍に通じておられ皇位継承については長男相続説を守っておられたため応神天皇崩御後に、兄宮に皇位に就かれるよう勧められたのである。しかし、大鷦鷯尊は日本的な思想の方で、これを固辞されたことにより、お二人の皇位の譲り合いが三年程続いた。命は宮居をこの菟道《宇治》に移され、皇位を早く定めて天下の煩いを除くために自害せられ、兄宮に譲られたのである。

【御神徳】

宇治の産土神としての信仰は勿論のこと、幼い頃より聡明で学門の道を究められ、我が国最初の文教の始祖として、学業成就や受験・就職・資格などの試験合格祈願の他、古くから伝わる「みかえりうさぎ」との御縁から、安産成就や方位除の神としても古来より信仰が篤い。

【神使の兎】

命がこの地に住まいを定められて、河内の国より向かわれる途中、道に迷われ難渋している時に、一羽のうさぎが現れ、後からついて来られる命を、振り返り振り返り先導したという古伝により、「みかえりうさぎ」といわれ、道徳に叶った正しい人生の道を歩むよう教え諭しているもので、神様のお使いとされています。

【文化財】

本殿は三間社流造、桧皮葺の社殿で、殿内中央に菟道稚郎子命の木造の御神像を奉安する。ともに鎌倉時代初期のもので国の重要文化財に指定されている。

『都名所図会』

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離宮八幡宮は橋寺の南にあり。祭る神三座にして上の社は応神天皇仁徳天皇。下の社は菟道の尊を崇奉る。是平等院の鎮守なり。宇治郷の産沙神とす。神輿三基。例祭は五月八日。

杈社は当社の北にあり。離宮の摂社なり。離宮と号することはこの地に宇治宮ありしゆへ自然の称号なり。又一説には当社の神は民部卿平忠文が霊を祭るともいへり。則この地忠文が別荘にて朱雀院の御宇承平三年三月平将門征伐のとき秀郷 貞盛 忠文等将軍としてことゆへなく将門を追討せしにより勅賞のさたありけるに小野宮左大臣清慎公うたがはしきを行はずと申されければ九條右大臣実朝公宣ふやうは刑のうたかはしきをば行はず賞のうたかはしきをば行へとこそ承り候へと申されけれども遂に忠文には其沙汰なかりけり。忠文本意なき事に思ひ手を握りて立たりけるが八つの爪手の甲まで通りて血は紅をしぼり断食して死しけり。其まま悪霊となりさま〱祟をなしければ小野の家は絶にけり。かくてこの霊を宥んため神にいはひて宇治に離宮明神と崇め後冷泉院の御宇治暦三年十月七日正三位をさつけたまへり。

 

地図

京都府宇治市宇治山田

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