社号 | 石田神社 |
読み | いわた |
通称 | |
旧呼称 | 御霊社 等 |
鎮座地 | 京都府八幡市岩田茶屋ノ前 |
旧国郡 | 山城国綴喜郡岩田村 |
御祭神 | 五十日足彦命、天照大神、大山咋命 |
社格 | 式内社、旧村社 |
例祭 | 10月9日 |
式内社
山城國久世郡 石田神社【大。月次新嘗。】
石田神社の概要
京都府八幡市岩田茶屋ノ前に鎮座する神社です(住所を岩田大将軍とする情報も多いが正しくは岩田茶屋ノ前)。式内社「石田神社」の論社の一つ。
式内社「石田神社」は『延喜式』神名帳で大社に列せられており古くは有力な神社でした。『延喜式』神名帳には石田神社は久世郡とある一方、当地は近世には綴喜郡でした。延喜式(或いはその元となった貞観式)が編纂された以降に郡境が変更されたことが考えられます。
社伝によれば、延暦六年(787年)三月十一日に山階(山科)の石田神を久世郡石田に遷座せよと神託があったので当地に遷座したと言われています。山階の石田神は不明ですが、京都市伏見区に石田の地名があり、ここがその神の鎮座地だった可能性があります。現在伏見区石田森西に鎮座する天穂日命神社は当社と同様に式内社「石田神社」の論社とされており、かの地は宇治郡であり到底久世郡ではあり得ないのですが、当社の元となった神社を継承している可能性は考えられるかもしれません。
一方で同じ旧岩田村の八幡市岩田里に鎮座する石田神社から当社に勧請されたとの説もあるようです。
当社は「五十日足彦命」「天照大神」「大山咋命」を御祭神としています。『日本書紀』垂仁天皇三十四年の条に「五十日足彦命。是子石田君之始祖也」とあり、新撰姓氏録には見えないものの五十日足彦命は石田君なる氏族の祖とされています。五十日足彦命の母は山背苅幡戸辺であり、その名からしても山城国に居住していたことが伺われます。当地なのか宇治郡の石田なのかは不明なものの、この子孫がいずれかの地を拠点とし、祖神を祀ったことが考えられます。
また、当社は「饒速日命」「惟喬親王」を相殿に祀っています。饒速日命について、鎌倉時代初めに伊豆に居住していた物部氏の子孫が当地に移転し祖神の饒速日命を祀り、その子孫が明徳三年(1382年)に当社境内に遷座、天文十六年(1547年)に相殿として祀ったと伝えられています。
また惟喬親王について、かつて当社東方に大将軍塚と呼ばれる小さな塚があり、これは惟喬親王の御霊社の跡と伝えられています。経緯は不明ですがいつの頃からか当社に遷座したようです。また大将軍塚には大竜王宮と呼ばれる小祠が建てられたといい、恐らく惟喬親王の御霊社の遷座後に新たに祀られたものと思われます。古くは旱魃の際に大将軍塚の周りを回って雨乞いをしたと言われています。
当社は近世以前は「御霊社」と呼ばれていましたが、これは上記の惟喬親王に因むとも、また江戸時代の資料に「文屋宮田麻呂」を祀るとするものがありこれに因むとも言われています。明治二十二年(1889年)に石田神社に改称し現在に至っています。
境内の様子
境内入口。現在は境内の周囲は小規模な宅地で囲まれていますが、かつてこの宅地は当社の境内だったようで、戦後すぐの航空写真を見ると現在の宅地の部分が神社の森になっています。境内の敷地を売却して宅地にしたのでしょうか。
南向きの鳥居をくぐると社殿まで一直線に石畳の参道が伸び、左右に真新しい灯籠がズラッと並んでいます。
参道の左側(西側)に手水舎があります。
社殿は南向きに並んでいます。拝殿は瓦葺の平入入母屋造。
本殿は銅板葺の一間社流造。塀で囲われています。
参道途中の右側(東側)に「水神社」が鎮座しています。御祭神は「速秋津彦命」「速秋津姫命」。檜皮葺で異様に縦に長細い一間社流造です。
上述のかつて大将軍塚の上にあった大竜王宮を明治八年(1875年)に境内に遷して水神社に改称したといい、室戸台風で倒壊して長らく廃れていたようですが、現在はこのように復活しています。
水神社に隣接して伊勢神宮と神武天皇の遥拝所があります。構造的に東を向いて拝むことになりますが、伊勢神宮は南東、橿原神宮は南にあり、方角がちぐはぐなのがやや気になるところ。
地図
関係する寺社等
石田神社 (京都府八幡市岩田里)
社号 石田神社 読み いわた 通称 旧呼称 牛頭天王社 等 鎮座地 京都府八幡市岩田里 旧国郡 山城国綴喜郡岩田村 御祭神 不明 社格 式内社 例祭 10月9日 式内社 山城國久世郡 石田神社【大。月 ...
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