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天神社 (京都府京田辺市松井向山)

社号 天神社/松井天神社
読み てん
通称
旧呼称
鎮座地 京都府京田辺市松井向山
旧国郡 山城国綴喜郡松井村
御祭神 天照大神、伊弉諾尊
社格 式内社
例祭 10月14日

 

天神社の概要

京都府京田辺市松井向山に鎮座する式内社です。

社伝によれば、松井交野ヶ原に創建されたものが現在地に遷座したと伝えられています。

交野ヶ原の地名は消滅していますが、現在も京田辺市の西側、学研都市線と第二京阪道路の交点のすぐ南方、大阪府との府境すぐ近くに「松井交野ケ原公園」が残っており、河内国交野郡との国境付近を「交野ヶ原」と称したようです。

『続日本紀』延暦四年(785年)十一月十日条および延暦六年(787年)十一月五日条に「交野柏原」に天神を祀ったことが記されています。一般にこの「交野柏原」は大阪府枚方市楠葉の「交野天神社」、もしくは大阪府枚方市片鉾にかつてあった小丘だとされていますが、当地にも当社のすぐ西方に「松井柏原」の字があり、交野ヶ原の地名のように交野郡に隣接する当地域も交野と呼ばれたことから当社であるとの説があります。

上記の「交野柏原」で行われた天神の祭祀は中国において冬至に都の南郊で天を、夏至には都の北郊で地を祀った「郊祀」を日本に取り入れたもので、上記の二回の他、『文徳実録』斉衡三年(856年)十一月二十二日条にも同じく交野原・柏原野で行われたことが記されており、日本史上この三回だけ記録に見えています。

こうした「郊祀」は、前二回は桓武天皇の長岡京遷都に伴い政治を刷新すべく行われたものと思われ、特に延暦六年のものは父である光仁天皇も祀り、形式的にも中国の「郊祀」に倣ったものとなっています。中国の制度を採用して長岡京を中心とする新たな支配制度を確立する狙いがあったものと考えられます。

しかし、「郊祀」の内冬至のものだけ行われた点、桓武天皇の御代に二回だけしか行われなかった点、後の一回は70年も経ってから突発的に行われた点など、日本における郊祀の実態は謎に包まれている部分も多くあります。

当社が「郊祀」の行われた神社であるなら、本来の御祭神は文字通り「天の神」であったはずです。延暦六年には光仁天皇も祀られたことから御祭神に光仁天皇も加えられることでしょう。しかし当社が「郊祀」の神社だったとする根拠は弱く、参考に留めておくべきでしょう。

現在の御祭神は「天照大神」「伊弉諾尊」となっており、いわゆる「天津神」となっています。一般に「天神」といえば菅原道真公ですが当社ではそのように伝えられていなかったようです。

菅原道真公を祀るわけでないとする意識が強かったことと思われ、当社が「天神」(天津神 or 天の神)を祀るとする伝承が古くから受け継がれたのでしょう。

 

境内の様子

境内入口。当社は生駒山地北部にあたる丘の中腹に鎮座しており、その麓に東向きの一の鳥居が建っています。

 

一の鳥居をくぐった様子。鬱蒼とした森に覆われています。

 

参道途中の左側(南側)の斜面上に宝篋印塔が建っています。由緒・沿革等は不明。

当社の神宮寺だった中性院のものだったのかもしれません。

 

さらに参道を進むと左側(南側)に手水舎があります。

 

松井天神社

手水舎から石段を上ったところに二の鳥居が東向きに建っています。

 

二の鳥居をくぐるとさらに長い石段が続きます。

 

石段下に狛犬が配置されています。真新しい花崗岩製でスタイリッシュな造形。

 

松井天神社

石段上の正面に社殿が東向きに並んでいます。

拝殿は桟瓦葺・平入入母屋造。基壇の上に建ち、土間となっています。前面と背面に開口部があるため割拝殿に近い形式です。

 

松井天神社 本殿

松井天神社 本殿

本殿は檜皮葺の二間社流造で、朱に塗られた上に非常に細かく鮮やかな彩色が施されています。

享保二年(1717年)にそれまで二棟だったものを一棟にして建立したもので京都府登録文化財となっています。

 

本社本殿のすぐ左側(南側)に二社が相殿となった境内社が東向きに鎮座。左側に「八幡神社」、右側に「春日神社」が祀られています。

 

本社社殿左側(南側)の斜面上に境内社が東向きに鎮座。社名・御祭神は不明です。

 

翻って、本社本殿のすぐ右側(北側)に三社が相殿となった境内社が東向きに鎮座。左側から順に「熊野神社」、「松尾神社」、「稲荷神社」が祀られています。

 

本社社殿の右側(北側)の空間に境内社が東向きに鎮座。社名・御祭神は不明です。

 

参道を戻ります。二の鳥居の左側(南側)の空間に二社の境内社が鎮座しています。

 

涸渇した池に石橋が架けられ、その先に境内社が北向きに鎮座しています。社名・御祭神は不明ですが、祭祀形態から市杵島姫神か弁才天等を祀っているものと思われます。

 

池中の祠の手前側に「水分神社」が南向きに鎮座。

この空間には水に関する神社が集められているのでしょう。

 

二の鳥居の右側(北側)に広い空間があり、これはかつて当社の神宮寺だった「中性院」の跡地です。

中性院は真言宗の寺院で、明応二年(1493年)には既に当社の神宮寺だったと言われています。明治の廃仏毀釈で廃寺となりましたがいくつかの仏像が当社に伝えられています。

案内板「中性院跡」

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中性院跡

京田辺市松井向山一番地

本院は式内天神社の神宮寺として建立されたものである。建立の年代、開基、沿革等明らかにしないが、明応二年(一四九三)すでに天神社に付属していたという。

天正六年(一五七八)竹島和泉が再興。万治三年(一六六〇)高尾山地蔵院の末寺となった。江戸時代の文書には龍王山観音寺中性院あるいは龍王山中性院とみえ、真言宗に属していた。

明治になって天神社の神宮寺から分離され、明治四年(一八七一)に廃寺になった。現在、天神社に不動明王、歓喜天、役行者等の諸像が残されている。

京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

 

当社周辺の様子。旧・松井村の南方の丘陵上にあたる松井山手駅付近は大規模に宅地開発が行われていますが、当社周辺は古い町並みがよく残っています。

 

タマヨリ姫
天神さまってことは菅原道真をお祀りしてるのかな?
どうもそういうわけじゃなさそうよ。天津神の神社であるとも、文字通り天の神を祀ったとも言われてるわ。
トヨタマ姫

 

由緒

案内板「天神社」

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天神社

京田辺市松井向山一番地

伊弉諾命と天照大神をまつる、式内社である。

社伝によると、もとは松井交野ヶ原に創祀されたものを現在地に移したという。長岡京に遷都の翌年の延暦四年(七八五)桓武天皇が天神を交野柏原にまつったことが『続日本紀』にみえる。この交野は現在の枚方市樟葉の交野天神社であるとされるが、ここ松井にも交野ヶ原・柏原の地名があり、社伝との関係が注目される。江戸時代は、神宮寺の中性院によって管理されていた。

現在の本殿(京都府登録文化財)は、江戸時代中期の享保二年(一七一七)に、それまで二棟であったものを一棟にしたもので、山城地方では例の少ない二間社として貴重である。装飾が堂々かつ奔放で庇妻の虹梁等の絵様の渦は幅が広く活気がある。

平成四・五年(一九九二・九三)に屋根をもとの檜皮葺に戻し彩色の修理も行い、かつての姿がよみがえった。

例祭 十月十五日

宵宮は松井祭太鼓が奉納される。

京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

 

地図

京都府京田辺市松井向山

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