社号 | 高神社 |
読み | たか |
通称 | |
旧呼称 | 大梵天王社 等 |
鎮座地 | 京都府綴喜郡井手町多賀天王山 |
旧国郡 | 山城国綴喜郡多賀村 |
御祭神 | 伊邪那岐命、伊邪那美命、菊理姫命 |
社格 | 式内社、旧郷社 |
例祭 | 10月16日 |
高神社の概要
京都府綴喜郡井手町多賀天王山に鎮座する式内社です。当地の地名「多賀」は『倭名類聚抄』に記載される山城国綴喜郡「多可郷」の遺称であり、古い地名です。
社伝によれば、欽明天皇元年(540年)、東嶽に神霊が降臨し社殿を建てて祀ったと伝えられています。その後、
- 和銅四年(711年)に字川辺に「東村宮」を建立
- 神亀二年(725年)に字西畑に「久保村宮」を建立
- 神亀三年(726年)に字綾の木に「谷村宮」を建立
と伝えられてており、この頃には三地区に分かれて祀られていたようです。ただし、現在は「綾ノ木」の地名だけが当社西方700mほどの地に残っており、他の字は不明です。
さらに社伝によれば、元慶二年(878年)の谷村宮の龍神祭で死者の出る喧嘩騒動が発生したため、仁和元年(885年)に現在地の天王山の地に鎮座し三社が統合されたと伝えられています。
近世以前の当社は「大梵天王社」と呼ばれ、大梵天王を祀っていました。社伝では宇多天皇の宸筆による「大梵天王社」の額と称号を賜ったと伝えられ、かなり古くから大梵天王を祀っていたことが示唆されています。
現在の御祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊理姫命」ですが、大梵天王は明治の神仏分離により高御産日神に変えて祀られることが多く、当社でも高御産日神を祀るとする資料があります。社伝でも天平三年(731年)に勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に、「多賀村」を「高村」に改称したと伝えています。
なお、高神社・高村は承久三年(1221年)に再び多賀神社・多賀村に改称したと伝えられています。
このように当社は異例なほどの複雑な社伝が伝えられています。ただ、高御産日神は造化三神の一柱であり抽象性の高い神なので天平年間に祀られていたとするのは疑問で、後世に大梵天王を祀るようになってからの付会ではないかと思われます。
また、「伊邪那岐命」「伊邪那美命」を祀るのは、伊邪那岐命が「多賀」の地(一般には兵庫県淡路市多賀の「伊弉諾神宮」もしくは滋賀県多賀町多賀の「多賀大社」)に鎮まったとされることに因み、当地の地名「多賀」が関連付けられたことによると思われます。
当社のように豊富な社伝が伝えられていてもどこまで史実が反映されているかを明らかにするのは難しく、また当社が当初どのような人々がどのような神を祀ったかも現状では不明です。一説には多可連なる渡来人がいたとも言われていますが根拠はなく、今後の研究が俟たれるところです。
なお、当社には文永八年(1271年)の社殿造営の様子を伝える『高神社流記案』が伝えられています。それによれば、社殿の造営にあたって「宝堅(ほうがため)」と呼ばれる神事が行われ、そこで猿楽が奉納された旨が記されています。これは猿楽に関する最古の資料であり、極めて重要です。
当社にはその他400点もの文書が伝えられており、中世以降の神社の様子、民衆の暮らしを知る上で貴重なものとなっています。
境内の様子
境内入口。当社は東方の大峰・北峰から続く尾根の上に鎮座しており、「天王山」と呼ばれています。山の上に鎮座しているため130mほどの長い石段が続きます。
入口から少し登ったところに一の鳥居が西向きに建っています。
一の鳥居をくぐって少し石段を上ると二の鳥居が建っています。
二の鳥居の前に配置されている砂岩製の狛犬。当社にはいくつもの狛犬が配置されていますがこの狛犬が最も古そうです。
さらに石段を上っていきます。かなり鬱蒼とした森の中。途中からは急勾配となり、社殿の建つ空間まで一気に駆け上がります。
石段の上の空間に社殿が西向きに並んでいます。
拝殿は瓦葺・平入切妻造の割拝殿で、正面に切妻破風の向拝が付いています。桁行七間もあるのでかなり横長の印象。
舞殿風拝殿の多い山城国北部とうってかわって、南部ではこのように割拝殿がよく見られます。
割拝殿の通路の様子。奥に本殿が建っており、その前に拝所が設けられています。
本殿は檜皮葺の三間社流造。慶長九年(1604年)に建立されたもので、桃山時代の特徴が見られる朱塗りの貴重な建築です。京都府指定文化財。個人的には国重文に昇格しても良いのではとの印象。
手水舎は石段からこの空間へ出る左側(北側)に小規模なものが建っています。
当社には非常に多くの境内社が鎮座しています。社殿左側(北側)の空間から見ていきましょう。
本殿のすぐ左側(北側)に「稲荷神社」が鎮座。御祭神は「宇加之御魂」。
稲荷神社のすぐ右脇には「祈雨神社」が鎮座。御祭神は「高龕天水分之神」。
稲荷神社の左側(北側)、この空間の北側に七社の境内社を納めた大きな覆屋が南向きに建っています。以下、左側から見ていきます。
左側から順に
- 「愛宕神社」(御祭神「火之迦具土神」)
- 「粟島神社」(御祭神「大国主之命」「少彦名命」)
続いて、
- 「伏拝八幡宮」(御祭神「仲哀天皇」)
- 「春日神社」(御祭神「天児屋根之命」「武甕槌命」「経津主命」「比売神」)
中央には
- 「大神社」(御祭神「天照大神」)
が祀られています。こちらの社殿だけやや大きめ。
大神社の右側には
- 「恵比寿神社」(御祭神「事代主命」)
- 「天忍穂神社」(御祭神「天忍穂耳命」)
そして
- 「八皇子神社」(御祭神「天穂日命」)
- 「若宮八幡宮」(御祭神「仁徳天皇」)
以上の七社が同じ覆屋内で祀られています。
七社の覆屋の左側(西側)に「誉田神社」が鎮座。御祭神は「誉田別命」「息長帯比売命」。独立して覆屋に納められて祀られています。
続いて南側へ。本殿のすぐ右側(南側)に「聖神社」が鎮座。御祭神は「大山積神」「木花開耶姫命」。
拝殿前の右側(南側)に「一之御前神社」が鎮座。御祭神は「武速須佐之男命」「櫛名田姫之命」。独立して覆屋に納められて祀られています。
御前神社は一般に岡山県を中心に見られる吉備系の信仰で畿内では珍しいものです。ただ吉備の御前神社と同一の信仰なのかは不明。
一之御前神社の右側(西側)に絵馬殿があり、扇形の板に墨で手形を捺して二本の竹筒を添えた絵馬が掲げられています。
これは米寿を記念して奉納されるもので、南山城では「升と斗掻き棒」の絵馬と共によく見られるものです。
拝殿の向かいには瓦葺・妻入切妻造の能舞台があります。これも南山城でしばしば見られるものです。
鎌倉時代の社殿の造営の様子を伝える『高神社流記案』に猿楽が奉納されたことが記されており、これは猿楽の記録の初出です。当地で芸能が盛んに演じられていたことが伺われ、この能舞台はそれを継承するものでしょう。
参道を戻ります。石段を下り、一の鳥居と二の鳥居の間の左側(北側)に「二歳大明神」が鎮座しています。御祭神は不明。
この神社だけが社殿の建つ空間から追い出されたような格好で鎮座しており、どのような経緯で祀られたのか気になるところです。


地図